物語の流れに乗って上巻の最終ページまでたどり着いた
角田光代訳『源氏物語 上』について語る前に、私の『源氏物語』原体験を書かせて頂きたい。時は17年前、高校2年生の私は当時から国語好き、読書好きだったため、苦い記憶となってしまった。
『(谷崎)潤一郎訳 源氏物語』に挑戦し、「花宴」まで読んで、古典の優雅さに溢れて魅力的なものの、くたびれてギブアップしたのだ。「やはり千年前のものを読むのは伊達じゃないな……」と、ショックを受けながら引き下がった。以来、自分は古代文学と縁遠い人間だと設定し、時々触れることがあっても、心底には高校2年生時の“諦め”を沈め、突き当ると解っている道を歩くように粛々と読んだ。(多分、似たような経験者は多いのではないかと予想する。)
それがどうだろう。角田光代さんの訳を得て、あれよあれよと読み切ってしまった。こんな物語だったかと呆然とし、いや、私はちゃんと読めたことがなかったじゃないかと我に返り、物語の流れに乗って上巻の最終ページまでたどり着いたことに改めて、驚いた。これは一体どういうことか……? この疑問は、巻末の角田さんによる訳者あとがき、そして編者の池澤夏樹さんの解説内容によってストンと気持ち良く腑に落ちた。
『源氏物語』は、現代に多い短編連作小説の形式で、切り取って楽しむことも出来る、という前提。その上で「長編小説というとらえかたでなければ浮かび上がってこないものがある」、「ある程度短期間にわーっと読まないといけないのではないか」、と考えた角田さんは「読みやすさ」にこだわったのだ。敬語や謙譲語による微妙な身分の表現などは、この作品の持ち味と感じつつも削ったそうで、思い切った剪定をされたのだと思う。
片や解説では、池澤さんがこのように書いている。『源氏物語』は「原文が極度に圧縮された表現から成っている」ために、現代語訳が難しいのだそうだ。「人称代名詞が極端に少なく、巧妙な敬語の使い分けで誰についてのことかを語る」。つまり、角田さんが思い切って削いだ表現部分であり、これを補う為に主語を入れ「人間関係を明らかにした上で、ざっと三割くらいしか間延びしていない。それでいて情感は充分に伝わってくる」という仕上がりが角田版なのだ。「千年を超えて我々をそこ(古典小説・54個分の感動)へ直結してくれる」という池澤さんの評に、諸手を上げて賛同したい。
それと同時に、17年前自分がギブアップしてしまった理由も判明した。谷崎版解説者によれば、当時から主語を補う訳法が主流であったが、谷崎氏は「いかにして、それをもっとも文学的に訳出するか」という点を重視し、主語のない原文をそのまま現代の口語文へ訳したのだそうだ。原文の持つ魅力の根源である「色気」を生かすために必要、という考えだったという。
つまり、するする読み終えた角田版と、リタイヤしてしまった谷崎版は、180度違ったアプローチで訳されていた。私は入り口を間違えたのだ……。
大袈裟でなく、この数年で最もスッキリした理解の瞬間であった。あまりにも納得して笑みが零れたほど。それはそのまま、「諦めていた『源氏物語』をついに読めた」という読書好きとして嬉しい、氷解の瞬間でもあった。
さて、「読めた!」ことにあまりにも感激し、肝心の内容に触れるのが遅くなったが、今回読んで恐れ入った点と、イメージが覆った点、併せて3点紹介したい。
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