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レトロゲームファクトリー(新潮社/柳井政和)
石を湖に投げ込みたかった。石の作った波紋はゆっくりと伝わっていく。湖面の波は、彼方の岸で跳ね返り足下まで戻って来る。岸だけではない。島、岩、水草。波は反射して重なり合い、美しい模様を作り、世界を覆うように広がっていく。
しかし、岸辺まで来た俺は、石を投げられなかった。湖に向かい、過去の誰かが作った波紋をながめるだけだった。水の表面は揺らぎ、たゆたい、陽光をひらめかせている。そのきらめきは、祭りの日の賑わいのように楽しそうだった。
■序章 出会い
僕にとっての教会はどこにあるのか。
七月の日差しは、アスファルトの道路を容赦なく焼いている。地面からは陽炎(かげろう)が立ちのぼり、肌はじりじりと焦げている。全身から汗が流れて、シャツやズボンが濡れている。その濃くなった色の端には、塩の跡が浮かんでいる。童顔で小柄な体、子犬のような雰囲気。自分の容姿は知っている。道行く人々の目からは、まるで捨て犬のように見えているだろう。
白野高義(しらのたかよし)は、都心にある大手ゲーム会社グリムギルドの本社前にいた。街の一区画を切り取った神殿のような箱。その建物は、巨大なモノリスのように二十一歳の白野を見下ろしている。白野はスマートフォンを持ったまま、虚脱した顔で、目の前のビルを見上げていた。
グリムギルドから依頼が来て、仕事に着手したのは三ヶ月前だった。ファミコン時代から続く、怪物城というアクションゲームのシリーズを、ゲーム専用機向けのダウンロード作品として移植する。白野が好む、ドット時代の古いゲームというのがよかった。
グリムギルドは、ゲームに縁のない人でも知っている大企業だ。有名企業からの話。プロデューサーからの直接の打診。上京して三年目、細々と請けていたゲームの開発。白野はちょうどその頃、仕事が途切れて、貯金も尽きかけていた。渡りに船。そう思い、橘鋭介(たちばなえいすけ)という人物からの依頼を引き受けた。
白野はNDA──秘密保持契約──を交わして資料を受け取り、移植を始めた。開発に関わる契約書は、納品間際に作るのがグリムギルドの慣例。そう言われて、会社によっては時折あるので、その条件で仕事を進めた。
文化住宅と呼ぶのが相応(ふさわ)しいアパート。古いゲーム機だらけの室内。昭和にタイムスリップしたような部屋で、白野はノートパソコンのキーをせわしなく叩く。シリーズの本数は多い。移植には時間がかかる。元のプログラムは、アセンブラと呼ばれる機械寄りのプログラミング言語で、当時のマシンに特化した内容になっている。そのため現代のマシンでは動かず、他のプログラミング言語で一から書き直していった。そして三日前、橘から電話がかかってきたのである。
「白野くんに送ったデータと作成したデータ、NDAに従って、すべて破棄してくれ」
「えっ、どういうことですか」
「NDAに書いてあっただろう。業務終了後、渡したデータおよび作成したデータは、すべて手元から破棄するようにと」
意味が分からない。白野は思わず叫びそうになる。仕事はまだ途中だ。今日も数百行のプログラムを書いた。いったいどういうことだ。白野はおそるおそる事情を聞いた。
「三ヶ月前にきみに頼んだ案件、必要なくなったから終了だ」
白野は、必死に食い下がって理由を尋ねる。
「料率の数字が折り合わなくてね。他のハードを選択することになった。そうした事情で、きみがしていた作業は不要になったんだ」
「ちょっと待ってください。お金はどうなるんですか」
自分は作業をした。その報酬をもらわないと三ヶ月分の時間が無駄になる。
「プロジェクトの内容が変わったのだから発生しないよ」
「そんな」
白野は悲痛な声を上げる。橘は、契約書がないので払えないと冷淡に告げる。これまでかけた時間分のお金をくださいと言うと、一方的に電話を切られた。
白野は、蒸し風呂のようなアパートの部屋で呆然とする。この仕事でお金が入ると思っていた。貯金は底を突き、今月の家賃も払えない。親に頼ることはできない。そうした縁はすでに切れている。このままでは都会の真ん中で餓死してしまう。
橘とのやり取り以来、白野は毎日、グリムギルドの本社にやって来ている。電話は押し問答が続き、三度目以降は居留守に変わった。白野は、直接会って話すことに望みを繋いだ。そして受付で入館を断られ、入り口近くの道路で時間を潰す日々が続いていた。
三日目の今日も、朝から訪問して同じ場所に座り込んでいる。灼熱の日差しを浴び、体力は削られていく。もう駄目かもしれない。白野は、自分の足下にできた汗の水たまりを、ぼんやりとながめていた。
「くそっ、昔のよしみと思って手伝ってやったら、三ヶ月も支払いを遅らせやがって。てめえらとは金輪際取り引きしねえよ。ボケナスが」
ビル街のガラス窓を震わせる怒声が、耳に飛び込んできた。
いったい何事だ。声がした方に顔を向けると、スーツ姿の引き締まった体の男が、拳を握り玄関をにらんでいた。
三十代後半ぐらいだろう。長身で手足が長い。しなやかそうな肉体は、天然の狩人といった雰囲気だ。彫りが深く、鋭い目つき。殺し屋、用心棒。マフィアのアジトにいたら、しっくりきそうな強面(こわもて)の顔だ。
いったい何者なのだろう。観察していると男と目が合った。絡まれたら大変だ。慌てて目を逸らすと、男が大股で白野の前まで歩いてきた。
「おい、そこの少年。おまえもグリムギルドに一杯食わされた口か」
男は顔をぐいっと寄せて、白野の顔を覗き込む。先ほどの怖い印象とは違う。悪人相に人懐っこそうな表情が浮かんでいる。目の前の男は、根は善人なのかもしれない。
「えー、あー、はい」
壊れたラジオのような声を漏らす。情けないことに、まともな返事ができなかった。座り込みも三日目。精も根も尽き果てている。全身が豆腐のようになっていた。
「ここは暑いな。近くの喫茶店で話を聞かせてくれ。俺ならあいつらに、一泡吹かせられる。古巣だからな。あのやり口が許せず、辞めた人間なんだよ俺は」
白野の前に、大きくてたくましい手の平が差し出された。太陽をぎゅっとしぼって、果汁を集めたような笑顔。握ってよいのか迷ったあと、男の顔を見つめる。懐かしさを感じた。ふと、「あの人」と似ているのだと気づいた。誰かにすがりたい気持ちも強かった。白野は男の手を握る。男は手に力を込めて握り返してきた。
「俺は灰江田(はいえだ)だ。グリムギルドの連中には、ハイエナと呼ばれている。おまえは」
「白野です」
「よし、白野。そこの店で作戦会議だ」
灰江田は、肩を組まんばかりの勢いで話しかけてくる。白野は、初めて会った男に連れられて、喫茶店の自動扉を抜けた。