横尾忠則「上京してグラフィックデザイナーに」

【第4回】高校卒業後、めきめき才能を現して、東京の日本デザインセンターで働き始めた横尾さん。それまでは自分の意思とは関係なく動いていった、と語ります。そして、60年代の時代を作ったデザイナー、作家、写真家に次々と出会うことになります――(聞き手・平野啓一郎)

上京してグラフィックデザイナーに

平野啓一郎(以下、平野) 西脇市に帰られた後は、地元の印刷会社が横尾さんの「織物祭」のポスターを見ていて、そこから「うちで働かないか」と声をかけられて就職し、その後めきめき才能を現していきます。

神戸新聞社に入り、そのあと上京して日本デザインセンターに勤務するというふうに、グラフィックデザイナーとして社会で働き始めるんですけど、その頃はグラフィックデザインが面白いという感じも出てきたんですか?

横尾忠則(以下、横尾) 地元の印刷所ではなく、加古川市の印刷所が僕の「織物祭」のポスターが入賞した新聞記事を見て、「うちに来ないか」と言われたんです。グラフィックデザインという名前も知らないまま職業に就いちゃったから。見よう見まねでやるわけですよ。そうすると、またそれで賞をもらっちゃうわけです。

賞をもらうとまた悩んでくる、自信がないことに対してね。ずっとそうなんです。たぶん、絵にしてもデザインにしても歴史的な知識がゼロだから、無手勝流が逆に新鮮に見えたのかもしれないですね。

だから、僕の意思とは無関係に妙な他力が働いて、それによって「右へ行きなさい」、「左へ行きなさい」みたいな感じでふらふらとやっていた。良くいえば素直、悪くいえば優柔不断だね。自分の意思とか主体性がないわけだから。

印刷会社に行くのもそう、神戸新聞に入るのもそう、その後東京へ出てくるまで無心と言うと格好よすぎるけれども、それに近い感覚でした。

執着とか欲望が子どもの頃からなかったみたいですね。たぶん親のせいだと思うんですよ。一人っ子で親が僕を溺愛したのでね。ある意味では頑固なんだけども、自分の行動に関しては親がつねにサポートしてくれないと自分で主体的に動けない、そんな傾向が10代の間にできちゃったんですよね。

10代というのは、人間の人格ができる大事な期間じゃないですか。そのときに僕の大半ができてしまった。だから、いま第二の10代を生きているのかなと思う。

平野 デザインの仕事を始めた当時、影響を受けたデザイナーとか、好きだったデザイナーというのは誰かいますか?

横尾 当時、日本宣伝美術会という大きな職業団体があって、そこで賞を取らないとデザイナーとしての資格というか評価が得られないわけです。文学でいう芥川賞みたいなもので、そこを通過しないでデザイナーになるのは非常に難しかった。僕はたまたまそれに通って、東京に出てこられたんです。

そして、僕が入った日本デザインセンターは、日本の中堅クラス、トップクラスが全部いる会社ですから。どう言ったらいいのかな、怖かったですね。

だって、一番偉い人が東京オリンピックのポスターを作っている亀倉雄策さん。あとは中堅クラスと言ったって、田中一光さんとか永井一正さんとか宇野亜喜良さんとか、周囲を見ればそういった人たちばっかりじゃないですか。

そこへ24歳のときに、関西から来ていきなり入っちゃった。関西弁も抜けてないし。まあ、いまも抜けてないんだけど(笑)。喋ってお里がばれちゃうっていうのがすごく恥ずかしくって。いまはよく喋るけど、その頃はものすごい無口だった。

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現代作家アーカイヴ~自身の創作活動を語る

飯田橋文学会

高橋源一郎さん、瀬戸内寂聴さん、谷川俊太郎さん、横尾忠則さん…小説家・詩人・美術家の人たちは何を生み出してきたか? 自身が代表作を3作選び、それらを軸として創作活動の歴史を振り返ります。創作の極意、転機となった出来事、これからの話ーー...もっと読む

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hokaridou https://t.co/dCcU9NfafJ 6ヶ月前 replyretweetfavorite