「そうか、結局おれの言葉を何一つ信じなかったってことか。アハハ、そうか、そういうことか」
僕はすっかり頭の中が真っ白になってしまった。
その態度を見るに、自宅に押しかけた時点で、問答無用と判断されていたのだろう。つまり、真赤にとっての僕は、もうすでに会話の通じぬ頭のおかしい不審者になり下がっていたということなのだ。
「あなたの弟にも連絡したわ。これから迎えに来るって」
それを聞いた時、おそらく僕の顔は真っ青になっていただろう。
いくらなんでも、家族まで巻き込むことはないじゃないか?
子供の頃は喧嘩もしたが、大人になってからは弟とはほとんどお互いのプライベートの話をしたことがない。そりゃ何も言わなくたって兄がまともな人間ではないことに気がついてはいるだろうけれども、そこには男兄弟同士のプライドというものがある。必要以上に踏み込まないというのが暗黙の了解だった。
真赤だってそれはわかっているはずである。なのに、兄弟をこんな場所に呼び込むというのか。えげつないことをする。
「番号はどこで?」
「前に水屋口さんが倒れた時、家族に連絡しようと、携帯から控えておいたの」
「嗚呼! 畜生!」
僕は居ても立ってもいられなくなって、窓の方へ走った。そのまま遥か下のアスファルトの上に身を投げ出したかったのだが、鍵をあけるのにもたついているところで足下にT川君が絡みついた。僕は不摂生が祟ってちっとも体に力が入らず、彼を振り払うことが出来ない。離してくれとわめいても、T川君は聞こうとはしない。
そうしてもみ合っていると、いつのまにかタミさんがやって来ていた。前もってタミさんの家に訪ねる連絡などをしていたわけだから、彼がそのことを言って弁護してくれることを期待していたのだが、何も言わずに突っ立っている。そして悲しげに僕を見ている。
彼も、真赤に何か吹き込まれたのだろうか? そして、真赤と同じように僕を言葉の通じぬ獣のような状態だと思っているのだろうか? いや、フラれたあとの僕の取り乱した態度を見て、もうこいつは気が狂ってしまったと、彼自身がそう見放したのかもしれない。
T川君が何か僕に言っている。耳がつんとしてしまって聞き取れないが、どうせ、真赤の味方をしているのだろう。誰かが「T川君は真赤のことが好きだ」って言っていたけれど、実際そういうことなんだろうな。それでおめおめとこんなところにやって来て、走狗となり下がっているんだ。
もうここには誰も味方はいない。そして、弟たちにも全て知られてしまった。そう思うと、頭の中でブツリと何かが切れたような気がした。
「ぶっ殺してやる」
僕はそう言って床に落ちていたハサミを拾うが、それはすぐにT川君にもぎとられる。彼が素早いというよりも、僕がお話にならぬくらいに遅かったのだろう。T川君が床に落としたハサミは、真赤が素早く回収した。
そして、この行動がT川君を怒らせてしまったらしい。それまではどこか控えめであった彼はにわかに積極的になり、彼の方から僕に飛びかかってきて、そして馬乗りになる。格闘技で言うマウントポジションというやつだ。
そういえば彼は、格闘技中継を視聴するのが好きなのであったなあと、僕はぼんやり思い出す。今、自分が見た格闘家の動きを思い出しながら、実践しているのだろうか。やっぱりそれは、マニアとしては嬉しいのだろうか。
その姿勢のまま彼が殴ろうとして来るので、僕は足を使ってそれを邪魔しようとしたのだけれど、今度はタミさんがそれにしがみつくので、守れない。T川君が固く握りしめた拳が僕の頬のあたりに直撃した。
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