メゾン刻の湯

instagramの人気アイドルが、実は同居人男子だった件

花火大会の夜、男子トイレの中から不意に現れた、浴衣姿の艶やかな女性。彼女の不可思議さと美しさに目を奪われ、うろたえるマヒコだったが、よくよく見るとその横顔には確かに見覚えがあった――。社会からハミ出たくせものたちの集まる銭湯シェアハウスが舞台の傑作青春小説、第27話です!

宵闇に沈む川岸までの道は、そぞろ歩く人々の黒い頭で埋まっている。僕とリョータと龍くんと美和子さんは手をつないで一列になり、人の流れに乗ってゆっくりと進んだ。

 狭い路地には露店がひしめいている。軒先に並ぶちょうちんがほうっと光を放ち、紺の夜空に赤い色を溶かしていた。焼き鳥の屋台からもうもうと立ち上る煙、ふわりと漂う綿菓子の甘い匂いと、人々の、これから見る花火への期待とが入り混じり、渾然一体となって沿道中にあふれていた。人々は進まない行列にためいきをつきながらも、一年に一度の景色を楽しんでいる。カラン、コロンとひびく下駄音が耳をくすぐり、写真を撮る若者たちの、闇に走るフラッシュが花火の前の気分を盛り上げた。

 この花火大会を終えると、東京にも本格的な秋が訪れる。暑さの中、一陣の涼風がときどき思い出したように吹き抜け汗にぬれたうなじを撫でた。土手が近づくにつれ、かすかに虫の鳴き声が聞こえてくる。

土手はたくさんの見物客で溢れていた。僕たちはなんとか河川敷の潅木の下に場所をとり、並んで花火を見た。この花火大会は規模が小さいから、隅田川よりも空に咲いた輪がぐっと大きく近く見える。口を開けていたら、火花が舌の上に舞い落ちて来そうだ。火の玉が夜空にふわりと浮かんでは軽快な音とともに爆ぜ、煙とともに空一面を極彩飾に染めた。リョータは花火大会に来るのは生まれて初めてらしく、首根っこをつかまれて持ち上げられたウサギみたいな顔つきで、ぽかんと宙を見上げていた。

 花火が終わり、すっかり気持ちの昂ぶった僕たちは、帰りの人々で埋め尽くされた駅までの道を缶ビール片手にはしゃぎながら歩いた。

 尻ポケットに入れたはずのスマホがない事に気付いたのは、なかなか動かない行列とともに、30分ほど歩いた後だった。慌てて体中を探るが、あの四角く固い感触がどこにもない。最悪だ。この人混みの中で落として、見つかる確率なんてほぼゼロに違いない。さっきまでの華やいだ気持ちはどこへやら、僕は絶望的な気持ちで己の愚かさを嘆いた。僕は「一緒に探そうか」と言う龍くんと美和子さんの申し出を断って先に帰らせ、もう一度あの木の下に戻ってみることにした。3人を僕のヘマに付き合わせるわけにいかない。

 僕は人の波に逆らいながら土手を走った。来た道の全てと、花火を見た木の下までくまなく探したが見つからない。僕は念のため忘れ物保管所にまで足を運んでみることにした。保管所のテントはかなり遠く、橋を渡り、川岸の反対側まで行かねばならない。会場の中心部の河川敷にはまだぽつぽつとブルーシートが残り、花火よりも酒が目的の若者連中が残って宴会を繰り広げている。それを横目に、僕は鬱々とした気持ちになりながら、土手を反対側へと走った。

 奇跡的にスマホは見つかった。誰かが保管所に届けてくれていたのだ。この世のすべての幸運が今夜、今ここに集まっていると感じた。生きてりゃいいこともある。僕は今にも走り出したい気分で来た道を戻り始めた。土手下の沿道は花火大会の余韻だけを残し、すでに灯りを落とし始めている。人影は疎らで、虫の鳴き声だけが、宴会が撤収した後のゴミの散らばる草叢を震わせていた。と、そこに、来た時には気づかなかった公衆トイレがあるのに気づいた。住宅街にめり込むようにして立っているため、周辺は暗く、辺りに人気はない。僕は急に尿意を催し、男子便所の入り口の方に近づいていった。

 不意に、色鮮やかな浴衣姿の女性が入り口からぱっと現れて、僕はびっくりして数メートル手前で歩みを止めた。てっきり女子トイレに入ろうとしたのかと思ったのだ。しかし、相手の背後にある四角いマークは間違いなくそちらの出口が「男」用であることを示している。今僕が現れたら、女性は自分の間違いに気づいて恥ずかしく思うだろう。僕は彼女が立ち去るまで待とうと思い、物陰に隠れた。しかしなぜか彼女はなかなかそこから動こうとしない。辺りをキョロキョロと見回し、何かを待っている。

 僕は訝しく思い、彼女の姿をじっと見た。ほぼ蛍光色に近い桃色と赤の花模様の浴衣に、レースの帯を無造作に巻きつけ今風に着崩している。ファッション雑誌か、ポスターから抜け出てきたような完璧な着こなしだった。耳の下でふんわりカールさせた金髪に白い肌、幾重にも連なるプラスチックのピアスが、遠くからもわかるほどじゃらじゃらと重たげに顔の横に垂れている。どこからどう見たって、原宿でも歩いてそうな同世代の女の子にしか見えない。しかし、その顔には何かしら引っかかるものがある。

 不安げな横顔の、華奢かつ物憂げなラインに見慣れたものを見出した瞬間、僕は悟った。普段は働かないくせして、小賢しい僕の脳はこういうときだけ記憶の引き出しからクリティカルな情報を引き出す。刻の湯の天井の雨沁みや、縁側の隅に降り積もる埃と同じくらい、すでに目に馴染みきった、あの形のよい頭、形のよい顎。

ゴスピだった。ゴスピであり、しかし目の前にいるのは彼じゃなかった。

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小野 美由紀
ポプラ社
2018-02-09

この連載について

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メゾン刻の湯

小野美由紀

”正しく”なくても”ふつう”じゃなくても懸命に僕らは生きていく。「傷口から人生」の小野美由紀が銭湯を舞台に描く、希望の青春群像劇! どうしても就活をする気になれず、内定のないまま卒業式を迎えたマヒコ。住む家も危うくなりかけたと...もっと読む

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