マーガレット・ハミルトンはすぐに頭角を現し、数年のうちにアポロのフライト・ソフトウェア全てを統括する立場になった。仕事は多忙を極めた。彼女は夜や休日も関係なく働き、娘のローレンはすっかり職場の顔馴染みになった。
ある日、退屈したローレンはアポロのシミュレーターで遊んでいた。そして偶然、「PO1」という打ち上げ準備のプログラムを作動させてしまい、シミュレーターがクラッシュした。
それを見たハミルトンはふと思った。万が一、実際の飛行中に宇宙飛行士が同じ間違いをしたらどうする? 宇宙飛行士だって人間だ。ならば間違いを犯しうるのではないか?
そして彼女にアイデアが閃いた。当時の常識では、コンピューターは人間に指示された仕事を忠実にこなすだけの機械だった。機械が人間に意見することなど考えられなかった。だが、その常識を逸脱すれば人間の間違いを未然に防ぐことができる。つまり、人間がプログラムの実行を指示した時、それが致命的な結果に至らないかをコンピューターがチェックする。もし危険があると判断した場合は人間の指示を拒否したり、アラームを出したりする。
当時のプログラムはキーボードではなくパンチカードで入力する必要があるため、開発には余計に時間がかかった。大きなプログラムは何千、何万枚ものパンチカードになった。そしてどんなに忙しくても、子育てに休みはなかった。
しかし、苦労の末に完成したエラー回避ソフトウェアはNASAに却下された。「宇宙飛行士は完璧に訓練されているから決して間違えない」というのが理由だった。中でも誰よりも激しく反対したのは、宇宙飛行士自身だった。たとえばアメリカ初の宇宙飛行士でアポロ14号の船長となるアラン・シェパードは冷淡に言った。
「この安全ソフトを全部消せ。もし俺らが自殺したくなったら、させろ。」
一体何がハミルトンを前に進ませ続けたのだろう? 女性は家で家事をするのが常識だった時代に子育てをしながら働き、夜を徹して作ったプログラムを却下され、宇宙飛行士に罵言まで浴びせられてもなお、なぜ彼女は常識に抗おうとしたのだろうか?
この時は結局ハミルトンが折れ、代わりに宇宙飛行士向けのマニュアルにこう書き込んだ。
「飛行中にPO1を実行しないこと。」
ハミルトンが正しかったことは、後に証明された。
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