十一
十一月三日、義経と行家一行二百騎余は京都を出発し、西国の任地へと向かった。それと相前後するように五日、鎌倉府の派遣した義経追討軍の先駆け衆が京都に入った。
この部隊の代表格の小山朝政と結城朝光は、朝廷に対して「鎌倉殿が激怒している」と伝え、公家たちを震え上がらせた。
一方、義経一行は摂津国の大物浦(後の尼崎)から船に乗って西国を目指した。ところが突然の暴風に襲われ、大物浦に戻らざるを得なくなる。
その頃、頼朝は黄瀬川陣にいる御家人や文士たちを集め、軍議を開いていた。
御家人たちを前にして、頼朝は声高に叫んだ。
「此度のことを、皆はいかに思う!」
此度のこととは、院が義経の望むままに院宣を下したことである。
当初、頼朝は過度に憤慨して見せようと思っていた。しかし怒りをあらわにしているうちに、自分でも「どうしたのか」と思うほど、頼朝は感情を抑えられなくなっていた。
「木曾義仲を討ち、平家を西海に沈めたわれらの勲功を、朝廷は何と思っておるのだ!」
頼朝の激高を初めて見る御家人たちは、咳一つ立てずに背筋を伸ばして聞き入っている。
「まず詰問使を送り、院の真意をお伺いした上で、今後の出方を考える。それまでは上洛するつもりはない。明日、鎌倉に戻る!」
これで鎌倉へと引き揚げることが決まった。実はそこまでは考えていなかったのだが、激した勢いで、つい言ってしまったのだ。
翌九日、頼朝と御家人たちは黄瀬川陣を引き払い、鎌倉への帰途に就いた。
その一方、御家人たちの入京は続いていた。その中には、後白河院の知行国である播磨国まで足を延ばし、院の代官を追い出し、倉庫群を封印する者までいた。むろん頼朝に命じられてのことだ。
親鎌倉派の九条兼実は、その日記『玉葉』に「入洛の武士らの気色大いに恐れあり」、「法皇、御辺の事、極めて以て不吉」と記している。
これに驚いた後白河院は、鎌倉に使者を送り、義経に出した頼朝追討の院宣は全く与り知らぬことであり、義経と行家の謀反は「天魔のなすところ」だと非難した。
これに対して頼朝は、「ほかならぬ院こそ、日本国第一の大天狗」だと記した書状を送り付けた。国家の頂点に君臨する法皇に対し、これほど無礼な書状を送り付けた者はいない。それほど頼朝は、怒りを抑えられなくなっていたのだ。
だが、これに震え上がった院は義経と行家追討の院宣を出し、自らは政治から身を引くつもりだと告げてきた。もはや武力は朝廷の権威を凌駕していた。朝廷はなす術もなく、すべてを鎌倉府に委ねるほかなかったのだ。
十一月十六日、義時が近江国にいる時政の許に行くと聞いた政子は、状況を確かめるべく大蔵の義時邸を訪れた。
「姉上、かような時に何事ですか」
義時は迷惑顔である。
「明朝、ご出陣と聞きました」
「出陣と言っても、戦をしに行くわけではありません」
「では、何をしに行かれるのですか」
「九郎殿と十郎殿の追捕です。姉上も知っての通り、かの者らは大物浦で遭難し、ほうほうの体で逃げ戻り、いずこかに潜伏しておるようです。もはや兵を催すこともままならず、途方に暮れておるとのこと」
「それだけですか」
「それだけとは──」
義時が怪訝な顔をする。