なんとなく、クルッテル

世の女性たちがなんとなく共有する、誰もが知るおじさん著名人たちへのファジーな嫌悪感の正体に迫る新連載「ニッポンのおじさん」。
第11回は、作家であり元政治家の田中康夫さん。1980年に発表された『なんとなく、クリスタル』は、100万部を超えるベストセラーで話題となりました。
そんな影響を受けつつ「田中康夫系」ともいわれた鈴木涼美さんは、「なんクリ」をどう読み、いまの田中康夫さんをどう批評するのでしょうか?

「#MeeToo」運動を恐れるおじさんたち

 昨年末、日本で珍種の生物が散見されるようになった。大抵、薄くなりかけた頭につながる顔は、現役感というかまだまだ現役でいたい感に溢れ、ポケットにバイアグラ的なものを忍ばせて、それなりに金のかかったスーツからさらに金のかかった時計を覗かせて、西麻布あたりに出現する。名付けて、男はつらいよ寅さん、ならぬ、Me Tooは怖いよおじさん。

 奴らは最初はそれなりにわきまえた態度で近づいてきて、どうでもいい会話をつないで、さりげなく「不倫ねぇ」とか「はあちゅうねぇ」とか「カトリーヌドヌーブねぇ」とか「キョンキョンもねぇ」とかいうワードをチラつかせてくる。そしてそのワードに対するワタクシたちの反応を敏感に感じ取って、奴らの中でGOサインがでた途端、急に自信満々に謎な持論を展開してくる。

 持論といっても話し方や語尾が変わるだけで、内容はほぼ同じ。最近のニッポンは不倫に厳しすぎる。セクハラにも厳しすぎる。男女の駆け引きなんていうのはもっと色っぽいものだ。わざわざギスギスさせるようなMe Too運動は間違っている。てゆーかビクビクしないでセックスしたい! てゆーかちょっと前の日本みたいに、なんだかんだおじさんを中心に世界が回って欲しい! てゆーかそうじゃなければ頑張って生きてきた甲斐がない!

 というわけで最近の私の趣味は、おじさんがチラつかせてくるワードに絶妙な反応をしておじさんたちを泳がせ、陳腐な持論、言い換えれば無邪気な本音を嬉しそうに垂れ流しにしてニコニコしだす彼らをつまみに酒を飲むことだったりする。別に、泳がせて、なんなら乳の一つでも揉ませて、あとでMe Tooというロゴ入りの剣で刺すほど性格は歪んでないけど、正論は正論だけに正しい分つまらないし、無邪気な本音はアホらしいし愛らしい。

 そんな私は別に部下に業界特有の俺様風吹かせてセクなハラをはたらいている男にも興味はないが、無菌室みたいなおしゃれなカフェにておちょぼ口で正しいことしか言わない若者にもそんなに興味がなく、堂々と自信満々で偉そうな人が好きだったりもする。偉そうな男に脱げとか自分で触れと言われておずおずと手を動かすのもいいが、偉そうな本に「愚民にはわからないだろうが」と見事な切り口を見せつけられるのも捨て難い。だから私はセックスでは言葉責めが好きだし、本では註釈が好きだ。

『なんとなく、クリスタル』の影響力

 註釈というのはよく言えば親切、しかしはっきり言えば究極の上から目線によって成立する。本文を書き、読んでいる俺クラスの人間には分かることだが、それ以下の人間にはわからないだろうから説明しよう。この固有名詞はこんな実態のものを指し、こういった意味を持つ、というふうに。

 『なんとなく、クリスタル』が発表された当時、一橋大学の学生によって紡がれだ作品を、江藤淳以外の偉いおじさんたちが軽視した理由は、高橋源一郎をして、もはやマルクス資本論と言わしめたような、同作の持つ文学それ自体に対する鋭い批評性に恐れおののいたからだったかもしれない。ただ、私が考えるにそこまで自覚的ではない多くの民衆が愛しながらも拒絶したのは、442個(プラス出生率データ)にのぼる註に、なんとなく、バカにされた気がしたからであるような気がする。当然、そこにがっつりとほだされた私のような変態も大量にいたわけだけど。(余談な上に私ごとだが、私は「なんクリ」に受けた影響を素直に踏襲して最初の頃のエッセイには多量の脚注をつけていたのだけど、何かのレビューに「田中康夫系」って書かれて悔しかったので最近はつけるのをやめた。私は住所を晒し、部屋をガラス張りにして私生活を丸裸にしたりしないが、性行為を晒し、カメラ越しに丸裸になっていたのでそんな親近感もちょっとある)。

 本文よりも註の方にボリュームと面白みがある極めて特異な小説である同作はその註の中で、上から、軽やかに、そして暴力的に大量の情報と批評を投げかけてくる。例えば註の345番目、英国の詩人である「T・S エリオット」の項目は「女子大生は、英語の授業でエリオットを購読すると、まだ恋人もいなかった一年生の四月を思い出して、April was(is) the cruelest month. と、つぶやきます」なんていう風に。

 多くの読者の記憶に残っているであろう1番目の註は「ターンテーブル」。その註の内容は、「プレーヤーのうち、レコードを載せる部分。甲斐バンドやチューリップのドーナツ盤ばかり載せていると、プレーヤーが泣きます」。401番目の「ビリー・ジョエル」は「ニューヨークの松山千春」、319番目の「モデル」は「たいした顔でもないのに、自己顕示欲のかたまりで、モデルをやっている女子大生もいます」。

 著者である田中康夫は、若さと知性でもってその時代の空気や固有名詞を一寸違わず把握する力を見せながら、その空気感の中からではなく、上から、時代がものや名前に持たせる意味を言語化し、切り取って見せた。それは他を寄せ付けないほど見事で、ちょうど10年後に岡崎京子が発表する『トーキョーガールズブラボー』でありありと描かれるような、80年代のスカスカに空虚な時代の中にある尖った記号たちの戯れを指摘し、また豊かさのその後に訪れる厳しさも言い当てた。

33年という時代経過と人間の老い

 果たして、田中が先見していたような時代の流れは確実に起き、そしてそれは政治家としてのお勤めを経て記された『33年後のなんとなく、クリスタル』で実質的に完成する。浅田彰や菊地成孔がプルーストの名を出して称賛した同作は、なんクリそれ自体に負けないほどの量の註が付けられているものの、註の書かれる箇所は巻末にまとめられていて、かつて本文を凌駕するように見開きページの左側全てに置かれた状態に比べると随分と控えめだ。

 註の内容も、政治家として発言する田中がこだわりを持つような箇所に持論が展開されているものの、なんクリに比べて安定した文体で随分親切で客観性が高く、情報の提供に徹するような印象を放つ。私はそこにこそ時代の経過と、人間の老いと、残酷な空気感を感じたりもする。なんクリの註は、時代の空気感を一寸違わず把握している者ならではの自由さと意地悪さと見識に満ちていたのだけど、33年後に60歳手前になっていた著者が、いやいやおじさんにはもうわからないこともあるさ、と謙遜しているような可愛らしさすらある。

ユーチューバー田中康夫のいま

 さて、最近YouTubeなんかで自作の動画をアップしている田中本人が、Me Tooについて言及していたのでちょっと見てみた。

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ニッポンのおじさん

鈴木涼美

どこか物悲しく、憎めないおじさん。男にリスペクトされる好感度高い系おじさん。こじらせおじさん。新しい価値観で社会を斬るおじさん。そして日本社会を動かすおじさん。彼らはなぜ〈おじさん〉になってしまったのか。彼らの何が〈おじさん〉たる所以...もっと読む

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コメント

kazumori1989 |ニッポンのおじさん|鈴木涼美|cakes(ケイクス) おもしろかった(´ω`) https://t.co/udGEBc12HJ 6ヶ月前 replyretweetfavorite

kaoruchy この人の書く記事、良い。軽やかに時代の変化の流れに乗っていきたいものですな。 2年弱前 replyretweetfavorite

shinjifukuhara とても良い記事。80年代も90年代も遠くなりにけり。でも時代は変わるんです。変化を拒むことは成長を拒むことなんです 2年弱前 replyretweetfavorite

tosacarte 老いについて。 https://t.co/ti6BOcYhKy 2年弱前 replyretweetfavorite