耳の奥のカタツムリ
内耳は中耳の奥にあり、聴覚をつかさどる「蝸牛」と、平衡感覚をつかさどる「前庭」および「三半規管」に分けられます。蝸牛は「カタツムリ」とも読みますが、その名の通り二回転半強の巻き貝状の形をしています。内部はリンパ液で満たされていて、管の中央に「コルチ器」とよばれるセンサーがたくさん並んでいます。これは短い毛の生えた細胞(「有毛細胞」)の上に膜が載っているもので、鼓膜から音が伝わると、リンパ液の振動が細胞の毛を揺らして、それが電気信号になって聴神経に伝わる仕組みです。
耳鳴りは生理的なものと病的なものに分けられますが、静かな部屋などで「シーン」、または「キーン」と鳴っているのは病的なものではありません。頭の中でセミが鳴いているようだとか、汽笛が鳴っているようだと病的です。原因は中耳や内耳の異常、耳管の不具合などさまざまですが、たいていは原因不明です。高齢者には耳鳴りが多く、私も患者から訴えがあれば耳鼻科に紹介しますが、たいてい治りません。気にしないのがいちばんですが、むずかしいようです。
前庭には「卵形嚢」と「球形嚢」という膨らみがあり、内部はリンパ液で満たされ、有毛細胞の上に「平衡砂 」とよばれる耳石が多数載っています。平衡砂の粒は1~1・5㎛で、ごく小さいものですが、その傾きで身体の傾きや加速度を判定しています。
三半規管は、半円状のチューブが互いに直角に交叉していて、前庭と同じくリンパ液で満たされています。これは身体の回転を感知するセンサーで、三本で前後左右上下を三次元的に見分けます。
地上では上下をまちがうことはないでしょうが、空中もしくは水中では、上下が混乱することがあります。無重力の宇宙空間では、そもそも上下の意味はなくなるし、戦闘機が空中戦で宙返りなどすると、上下の感覚が消えることがあるそうです。その場合は自分の感覚より計器を信じろと教えられたと、航空自衛官から聞いたことがあります。
チャップリン(1889~1977)の『独裁者』(1940年)でも、空中で宙返りしたまま気づかずに飛行するチャップリンが、上官に「今、どのあたりだ」と聞かれ、「下は太陽です」と答える場面があります。
スキューバダイビングでも、深くもぐるとときに上下が混乱し、浮上の方向がわからなくなることがありますが、そのときは吐いた泡の上っていくほうへ上がるようにします。
耳の魅力と魔力
先に耳には官能を刺激するところがないと書きましたが、芸術や文学の世界では、耳はときに異様なモチーフとなります。
たとえば、夭逝の彫刻家、三木富雄(1937~1978)は、憑かれたように耳の彫刻を作り続けました。人間の身長より大きな耳の金属彫刻を、私は中学校の美術の教科書で見て、強い衝撃を受けました。そんな巨大な耳を作る彫刻家の情念に、言いようもない不吉さを感じたからです。耳の付け根には、顔から引きちぎったような結合組織らしき異物がついていました。三木富雄がどんな人物かは知りませんでしたが、後年、NHKの『日曜美術館』で、彼が耳の呪縛から逃れるために、自分の手の甲にタバコを押しつけ、その火傷 の写真などを残しているのを知り、さもありなんと思いました。彼は結局、新しいモチーフに出会えず、41歳で急逝しています。
画家では、ゴッホ(1853~1890)の耳切り事件が有名です。
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