十
十月二十四日、落慶したばかりの勝長寿院において、頼朝は亡父義朝の追善供養を行った。この供養には、関東各地から名だたる御家人が三千人近く集まり、鎌倉府開闢以来の盛儀となった。
供養が終わった後、頼朝は御家人たちを前にして義経と行家の討伐を宣言し、自ら京都まで赴くので、「わが先駆けを担い、この場から出陣できる者は名乗りを上げよ」と告げた。
これにより御家人たちの目の色が変わる。先陣として出発できる者は、それだけでも「御意に叶う」ことであり、また義経と行家の首を獲れる可能性も高まる。だが御家人の大半は国元に戻らないと、出陣の支度が整わない。そのため先駆けに名乗りを上げた者は、わずか五十八人だった。
二十五日、小山朝政・結城朝光ら先駆け衆五十八人が鎌倉を出陣していった。残る御家人たちも三々五々、京都を目指すことになる。
これまで平家討伐戦でも鎌倉を動こうとしなかった頼朝だが、今回だけは自ら兵を率いて京都まで行くつもりでいた。むろんそこには、鎌倉府の武威を示して朝廷を震え上がらせ、多くの権益を取り上げようという狙いがある。
二十九日、頼朝は鎌倉を発ち、十一月一日、駿河国の黄瀬川宿に陣を布き、小山や結城の第一報を待つことにした。
七日、黄瀬川宿にある寺の僧坊で、頼朝が追善供養に来られなかった御家人たちに陣触状を書いていると、障子を隔てて「よろしいですか」という声が聞こえた。
「小四郎か。構わぬ」
「ご無礼仕る」と言いながら、小四郎こと北条義時が障子を開けて入ってきた。
義時は父の時政のように太り肉でもなく、亡兄の宗時のように精悍そのものでもない。その風貌は茫洋としており、何を考えているのか分からないところがある。
「たった今、父から早馬が着きました」
この頃、義時の父時政は、近江国で義経らの動向を探っていた。
「で、親父殿は何と言ってきた」
「九郎殿と十郎殿が都を退去したとのこと」
「何だと──。退去して、どこに行った」
「それについては、こちらに」
義時が差し出した時政の書状を黙読した頼朝は、ようやく事情がのみ込めた。
どうやら後白河院は、義経に「頼朝追討」の院宣を与える代わりに、京都からの退去を求めたらしい。京都が戦場になるのを防ぐためだ。しかし義経としては、「都落ち」という形は取りたくない。そこで院とその近臣を脅かし、義経は九州の、行家は四国の地頭職に任命してもらい、堂々と都から去っていったという。
「院は、厄介払いができるなら院宣でも何でも出すのですな」
「それが院のやり方だ」
義時が続ける。
「院はわれらを侮り、九郎殿から求められるままに何でも与えました。われらが上洛しても、『無理強いされた』と言えば、それで許されると思っているからです。しかし此度ばかりは、その代償を払わせてはいかがでしょう」
「代償を払わせるとは──」
「この機に、朝廷から荘園や権益を取り上げるのです」
「つまり九郎を、あえて泳がせるというのか」
「はい。ただし十郎殿を殺すことで、われらが本気だということを示しておくべきでしょう」
「だが、九郎を奥州に逃がせば厄介なことになるぞ」
「分かっております」
頼朝は奥州藤原氏、すなわち藤原秀衡との対決は、まだ先になると思っていた。
「だが、それならそれで構わぬのでは──」
「つまり奥州に、あえて逃がせと」
「そうです。九郎殿は唯我独尊の方です。奥州の方々とうまくやっていけるとは思えません。そうした火種を奥州に抱えさせた上で、九郎殿を匿った罪を問い、院宣を賜って攻め込んでしまえばよいのです」
義時が不敵な笑みを浮かべる。
「そなたが、そこまで先を読んでおるとはな。恐れ入ったわ」
「いえいえ、武衛様が考えておいでのことを先回りしただけです」
「世辞を言うな」
「恐れ入りました」
二人が高笑いする。
「で、向後、いかがいたしますか」
「少し様子を見ることにするか」
「それがよろしいでしょう。ここで武衛様が京都までご出馬すれば、朝廷の憎悪は武衛様に注がれます。朝廷には、脅かしては頭を下げることを繰り返すのが肝要。さすれば、こちらの出方が分からなくなります」
「そなたは賢いの」
頼朝は眼前にいる二十三歳の男が、着実に成長していることを知った。
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