「道端に生えてる雑草みたいな詩が書きたい」
ロバート キャンベル(以下、キャンベル) 詩を初めて書いたときから報酬をもらって、そこからいわば受注生産のような形でずっと詩を作ってこられた。それも特に戦後の現代詩壇のなかでは白眼視されたり、ちょっと珍しがられたり。
でもこの20年ぐらいでしょうか、谷川さんが仰っているような意味ということ自体が崩れ、その存在そのものが自己目的化されることに対する疑いが、むしろ私たちの発想として真ん中にあるわけですね。
谷川俊太郎(以下、谷川) そうですね、はい。
キャンベル そうすると、谷川さんの詩人としてのあり方というのが非常にわかる気がします。1990年代に入ってから『世間知ラズ』という詩集をお出しになっているわけですが、その「世間知ラズ」の詩に、詩人とは何かということの自問自答のような部分があって、こういうふうにお書きになっています。
行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
谷川 仮にそう言われるのがいいんじゃないか、そう言うしかないと(笑)。
『世間知ラズ』思潮社、1993年/Kindle版、岩波書店、2016年
1960年代から70年代にかけて、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が評判になった時期がありましたね。あの頃から僕はノンセンスというものにすごく惹かれて、自分も『よしなしうた』という詩を出した。
ただ、ノンセンス詩を書きたいと思っていろいろ頑張ったんだけど、なかなか意味のない詩っていうのは書けないんです。やっぱり言語で書いているわけだから。でも自分なりに一種のユーモアも含めたノンセンスと言えます。
『よしなしうた』青土社、1985年/青土社、91年/Kindle版、岩波書店、2016年
あの頃は鶴見俊輔さんという哲学者の方が、「ノンセンスというのは存在の手触りというものを知らせてくれる」という言い方をなさっていて、僕はなるほどなと思ったんです。
だからノンセンスというのは言語を解体することで、言語以前の存在に触れる。そこではもう言語そのものは、そういう存在に対して呑まれて溶けてしまうと言えばいいのかな。何かそんな感じのところに行きたいという気持ちがすごく強いんですね。
たぶん詩というのは、それに一番近くて、そうなる可能性があるということだと思うんです。
だからいま、「どんな詩を書きたいですか」なんて聞かれると、僕は「道端に生えてる雑草みたいな詩が書きたい」って言う。
あまりにも理想主義的な言い方なんですけど。そこら辺に雑草が生えていて、小さな花が咲いていると、「ああ、なんかかわいいな」とか「あ、ここにもちゃんと命があるな」と思いますよね。雑草は何のメッセージも、何の意味もないわけです。だけど、そこに存在しているという強さがある。だから言葉で、詩でそういう存在になれないかなということを考えてしまいますね。
キャンベル 谷川さんの紡ぎ出している詩と谷川さんの実像そのものが、「あなた」でなかなか同化できなかった二人のようだったんですけれども、いまのお話を聞いていると、ご自分のなかでは一つの有機的な存在として、そこには隙間がないということを感じます。
谷川 そうですか。そう言われると嬉しいです。
「さようなら」——自分が解放されるとき
キャンベル 先ほど魂だけが残るという話があったんですけれども、最後に『私』という詩集に収められた詩を読んでいただきたいと思います。「さようなら」という詩です。まさにユーモアを利かせた詩だと思います。
『私』思潮社、2007年
谷川
さようなら
私の肝臓さんよ さようならだ
腎臓さん膵臓さんともお別れだ
私はこれから死ぬところだが
かたわらに誰もいないから
君らに挨拶する
長きにわたって私のために働いてくれたが
これでもう君らは自由だ
どこへなりと立ち去るがいい
君らと別れて私もすっかり身軽になる
魂だけのすっぴんだ
心臓さんよ どきどきはらはら迷惑かけたな
脳髄さんよ よしないことを考えさせた
目耳口にもちんちんさんにも苦労をかけた
みんなみんな悪く思うな
君らあっての私だったのだから
とは言うものの君ら抜きの未来は明るい
もう私は私に未練がないから
迷わずに私を忘れて
泥に溶けよう空に消えよう
言葉なきものたちの仲間になろう
これをある方との対談のときに読んだら、その相手の方が「谷川さんはちんちんさんにはどんな苦労をおかけになったんですか」と言われて。
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