鎌倉にも秋の気配が漂い始めた八月初旬、政子の弟の北条義時が西国から帰還した。
平家討滅戦において、義時は範頼の軍に加わって葦屋浦の戦いなどで活躍した後、範頼の下役として九州諸国の統治に当たっていたが、文士たちと入れ替わりに帰国してきた。
義時は敵の首を取るといった武功を挙げられなかったものの、吏僚として着実に仕事をこなし、周囲から一目置かれる存在になっていた。
この日、その帰還を祝し、義時の鎌倉邸で祝宴が張られた。
落葉の季節にはまだ早いものの、秋の装いとなりつつある庭園に緋毛氈が敷かれ、季節の花々や山海の珍味が並べられる。その間を縫い、見目麗しい女房たちがかいがいしく給仕して回る。
「よくぞ無事で戻った。めでたい。めでたい」
すでに酩酊状態の時政が喜びをあらわにする。
「それがしは際立った武功を挙げられませんでした。それゆえ喜ぶのは、ほどほどにして下さい」
義時は二十三歳という若さに似合わず、常に冷静で慎み深い。
「父上、小四郎が申す通りです。何事にも控えめでいることが大切だと、いつも仰せになられていたではありませんか」
政子がたしなめる。
「そうであったな。われらのように小さな身代しか持たない土豪は、過度に目立つことは控えねばならん」
「武功を挙げなかったのが、逆によかったかもしれませんね」
父子が高笑いしながら盃に注ぎ合う。
──小四郎殿、よくぞここまで成長しました。
政子には感慨深いものがあった。
かつて義時は江間小四郎と呼ばれ、嫡男ではなかった。文武に秀でた兄の宗時がいたからだ。
しかし宗時が石橋山合戦で討ち死にすることで、江間氏として分家させられていた義時が北条氏の嫡男となった。
「それでも小四郎、手柄話の一つくらいはあるだろう」
「そんなものはありません。われらは兵糧も馬糧もなくなり、身動きが取れなくなっていました」
元暦元年(一一八四)九月、京都を出発し、山陽道を西に進んだ範頼軍は、不案内な地で兵糧の現地調達もままならなくなり、瓦解の危機を迎えた。それでも翌年正月に長門国まで到達するが、士気は著しく衰えて戦うどころではなくなっていた。御家人たちの管理者である侍所別当の和田義盛でさえ、いったん兵を引くことを進言する有様で、範頼も撤退の決断を下す寸前までいった。しかし義時が皆を説得し、その場にとどまらせた。
こうした範頼軍の体たらくを聞いた頼朝は、平家討滅戦に義経を起用せざるを得なくなる。
範頼軍とは対照的に義経軍は連戦連勝で、出陣からわずか四十日で平家を壇ノ浦に沈めた。
「それでも武衛様は、六郎殿を三河国の国守に任じました」
平家討滅戦の功により、範頼は三河国(参河国)の国守の座を頼朝から賜り、以後、参州と呼ばれていた。
「われらは武功らしい武功を挙げられませんでしたが、参州様が国守の座に就いたことで、あの時の労苦が報われました」
「それは何よりだが、参州殿と比べ、九郎殿には困ったものよ」
時政が吐き捨てるように言う。
「仰せの通り」と答えつつ、義時が向後の観測を述べる。
「まず九郎殿は院に接近し、武衛様追討の院宣を賜るでしょう。続いて十郎殿をはじめとした畿内や西国の武士たちの中で、鎌倉府のやり方に不満のある者を糾合します。これにより一大勢力を形成し、鎌倉に攻め上ろうとするでしょう」
「その通りに行くとは思えぬが」
時政が口を挟む。
「いかにも。九郎殿の武名がいかに輝かしかろうと、武衛様と鎌倉府に大恩がある御家人たちは、なびきますまい。しかも院は諸刃の剣」
義時がにやりとする。
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