06 デカルトはいつか「死ぬ」
いかに健康で力がみなぎっていても、死の訪れに際しては死を心残りなく受け容れられるよう準備しておかなければなりません。なぜなら死は時を選ばずしてやってくるものですから。 ―デカルトからポロへの手紙 (一六四八年)
「死」を論じようとすると「生」について論ずることになる不思議
ある年の卒業式のあと大学近くの洋食屋で開催した祝賀会で、私は一人の男子学生から三冊の漫画を友情の記念にもらいました―「先生は漫画もお読みになると授業で仰っていたので……」。
彼が手にしていたのは、こうの史代さんが二〇〇八年から翌年にかけて発表した『この世界の片隅に』(双葉社)でした。その映画版について素晴らしい世評を耳にするも未見、原作も未読だった私は、翌日に一気に読みました。
心を動かされる場面はいくつもありましたが、とりわけ「あとがき」に書かれていた作者の次の文章には目に熱いものを感じました。
「わたしは死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるのかどうかわかりません。他者になった事もないから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはわからないままかも知れません。そのせいか、時に『誰もかれも』の『死』の数で悲劇の重さを量らねばならぬ『戦災もの』を、どうもうまく理解出来ていない気がします。そこで、この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の『誰か』の『生』の悲しみやきらめきを知ろうとしました」
「死」を論じようとすると結局は「生」について論じることになる―私はその不思議を絶妙に述べたこの文章を読んで、すぐにデカルトが死について述べていることを思い出したのです。それをここに記します。
デカルト的「死に支度」
「最良の友人」であったベークマンを喪った牧師のコルヴィウスは、一六三七年六月十四日付けでデカルトから、次のようなベークマン評を含んだ手紙をもらいました(実はデカルトとベークマンも一時期、数学の共同研究をするほどの仲でしたが、最終的に喧嘩別れしてしまいました)。
「私が思いますに、ベークマン氏は哲学者然としたところがとても強く、いや実際にそうだったわけですから、自分を襲ったもの〔つまり死〕についてずっと前から覚悟していたことはけっして疑われません」
この手紙は、一字一句を丁寧に読んでみると面白いことが述べられているのに気づきます。それは深読みだ、的外れだ、という批判もあるかもしれませんが、私などはこの手紙のうちに、哲学者はどうあるべきか、という問いに対するデカルトなりの答えというか考えを読み取ってしまうのです。つまり、哲学者とはきちんと「死に支度」を済ませておく者のことである、というものです。
まずこの手紙では、肉体は朽ちて滅んでも、魂は不滅で不死である、というキリスト教的な人間観の色濃いことが注目されます。このような考えは、デカルトのそれ以外の著作にも認められるもので、たとえば『方法序説』の第五部では「魂は不死である」とはっきり述べられています。さらに彼の独特な人間観と相まって、人間の死は『情念論』第六項のなかで次のように定義されます。
「死は、魂の欠如によって起こるのではけっしてなく、ただ身体の主要な部分のどれかが壊れるから起こる」
「魂の欠如」とは、魂が(い)なくなること、です。しかしデカルトはこのことをもって人間の死を定義していません。あくまで身体のさまざまな器官が、あたかも機械が故障するかのように、損傷を、ただしきわめて深刻な損傷を受けることが、「死」なのです。
そうすると、ベークマンの「魂」は不滅ということになるので、彼の死を悲しむ必要はない。ただ、デカルトの力点はもう少し別のところに置かれているようにも思われます。彼はコルヴィウスに宛てて、ベークマンは死を「覚悟していた」と述べていました。しかも「ずっと前から」……。それにしても、覚悟するとはどういうことでしょうか。心支度をしておくということでしょう。それでは、何をどうすればよいのでしょうか。
実はこの問いに関するデカルトの言葉数は、他の主題に比べるとどうも少ないのです。しかしそれでも、これからいくつかの引用を突き合わせることで、デカルト的な死に支度について深読みしてみたいと思います。
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