温泉旅行に行って、何が楽しいかって、朝湯だ。
朝湯に勝る気持ちよさはない。
いつも寝坊のボクが、旅先ではどんなに遅く寝ても、朝六時半には目覚ましをかけて、起きる。なぜか目覚ましが鳴る前に、目が覚めるんだけどね。
眠いことは眠い。前夜飲み過ぎた酒が残っていたりもする。
でも起きる。ガバッと起きる。
浴衣が寝乱れてしわくちゃで、前がはだけて、ヘソやパンツが見えてたりする。そこに腰紐だけが一本渡っている。それだけはテキトーに直す。
そして、タオル掛けに干しておいたタオル一本ひったくって、廊下に出る。
湯に向かう。露天風呂があれば最高だけど、なくてもいい。
浴衣はすぐ脱げるのがいい。さっと脱いでパンツも脱いで、浴場に入る。
たっぷりかけ湯をして、肌を湯に慣らし、足からゆっくりと湯につかる。
湯の中で、足を伸ばす。手も伸ばす。
うわー。
もうもうと湯気が立ちのぼっている。その湯気を眺める。
眠気も酒も、湯気と一緒に消えていくようだ。
ボーッとする。
ボーッとしているけど、からだがどんどん目覚めていく。頭もだんだん目覚めていく。
そして、気持ちがいい、という感覚がハッキリとしてくる。
自分の中が、気持ちがいいという感情だけに、満たされていく。
湯を手のひらにすくって、顔にあてる。温泉だ。たしかに温泉だ。そのことが再びうれしい。
風呂で誰か知らない客がいたら「おはようございます」と自分から言えるようになった。場合によっては、出るとき「お先に失礼します」とも言える。大人になるのに、生まれてから五十年ぐらいかかった。
湯から上がったら、からだをよく拭いて、浴衣を今度はきちんと着て、スリッパをペタペタ鳴らして部屋に戻る。
スリッパという履物は大嫌いだが、旅館の風呂帰りだけは悪くない。気持ちよくてちょっとダメになってる自分の歩き方に、スリッパ、合ってる。
部屋に戻ったら、敷いてある布団の上に、ドタッと倒れこむ。
こういう時は、どうしたってベッドより断然布団だ。
そのままの姿勢で休んでいると七時になる。朝食は七時にお願いしてある。
その部屋で食べるにしても、食堂や大広間で食べるにしても、仲居さんに、布団は上げないでくれとお願いする。
風呂に入ってからの食事は、ものすごくおいしい。
起きたばかりだと、内蔵がまだお目覚めでないようで、朝食も進まない。
朝風呂に入ると、すっかり五臓六腑が目を覚ましている。きれいにお腹が空いている。
ご飯の前には茶を飲む。朝の茶はおいしい。一日で一番おいしい。
風呂に入らなくてもおいしいけれど、風呂のあとはまたおいしい。
梅干しがあったら、一個食べる。茶と一緒に食べる。朝の梅干しはうまい。
そして、おもむろに朝食に入る。いただきます。
まず、味噌汁が美味しい。
味噌の成分がからだにいい、というのが実感としてわかる。前夜の酒が多少残っているのかもしれない。それで、味噌汁がウマい。ならば、朝の味噌汁をおいしく飲むには、前の晩にちゃんと酒を飲まないとダメだな。という酒飲みの屁理屈をこねてみたりする。
味噌汁のミは豆腐とネギで文句はない。シジミやナメコでなくてもよい。
なんといっても白いご飯がおいしい。
鯵の開きがおいしい。
焼き海苔に醤油で、ご飯を巻いて食べるのがうまい。どうしてこんなものが、こんなにおいしいんだろう。
お新香がイマイチであっても怒らない。
シンプルな旅館の朝食が一番好きだ。卓上を御馳走でいっぱいにするような夕食は、むしろ敵だ。いらないオカズは積極的に残すようにしている。山の旅館で出る伊勢エビのグラタンなんてのは、敵の筆頭だ。箸もつけない。もったいないとは思わない。出すほうが悪い。
おいしい旅館の朝食はご飯を必ずおかわりするが(普段はしない)、それでもあっという間に終わってしまう。十分とかからない。席を立つとき、いつも日本人て、せせこましい、ビンボ臭いと思う。でも食べ終わった膳の前にいつまでもいたくない。
朝食後、帰ってきて、布団が上げられていたりすると、頭にくる。
余計なことしやがって!
プンプンしながら押し入れを開けて、敷き布団を引きずり出す。新しいシーツも出しちゃう。俺に無駄なことさせないでよ。
でも、プンプンしながらも俺はうれしくてたまらない。
もう一度寝るからだ。朝湯のあとの朝食のあとの、寝。この二度寝が好き。本当は朝の温泉より、旅館の朝ご飯より、好き。
朝湯に勝る気持ちよさはない、と最初に書いたけど、ごめん、あれはウソでした。最初っから二度寝というと、読んでもらえなくなると思ったから。
この二度寝の、眠りに落ちていくとき、最高ですね。絶頂。しあわせの絶頂。まさに、イッてしまう心地。
この瞬間のために旅行に出てきた。といっても言い過ぎではない。その絶頂の前戯の皮切りが、朝風呂というわけだ。
と、前置きが長くなったのを許して欲しい。
いや、許さなくてもいい。
ふと思ったのだ。
別に遠方に旅と言わずとも、朝風呂に行ったっていいんじゃないかと。
自宅の狭いプラスティック風呂にちょこっと湯をためて、チョポンと入るんじゃなくて、ちょっと出かけてって、天井の高いでっかい風呂に、朝からザブンと入るのもいいんじゃないか。いや、いいに違いない。
そういえば、都内で朝から入れる銭湯があったはずだ。ものの本で読んだ。
客はじいさんばあさん中心だったと思うが、俺が入ったっていいじゃないか。だいぶじいさんに近付いているし、変な目で見る人もいないだろう。
旅館ではその気持ちよさのために、早起きしているじゃないか。
で、せっかく出かけてって、いい湯につかったら、ちょっといいことしてこようじゃないか。え? ちょっと、一杯。あるだろう。東京だ。朝から飲めるところ。朝食がてら。なに、朝の酒だ。そんなに本格的に飲もうってんじゃない。ちょっと。軽く。
朝寝朝酒朝湯が大好きで、の小原庄助さんをやろうってんじゃない。
かるい朝湯酒。
早起きは三文の得ともいう。きっと、夜中のダラダラ酒と違う味がする。
思い出した。
弟が、前に都内の銭湯のオリジナル手拭いを作る連載を、なにかのPR誌でやっていた。弟・久住卓也は、手拭い作家でもある。たしか、朝風呂をやってる銭湯の手拭い、作ったぞ。
燕湯。たしか燕湯だ。
ネットで検索したら、出てきた。
しかも一番最初に「朝湯 銭湯燕湯」と出た。朝湯で有名らしい。
燕湯は、JR山手線の御徒町の近くにあった。一回の乗り換えで行ける。
月曜定休でなんと毎日朝六時から営業。中休みなく夜八時までやっている。
第一回は燕湯で決まりだ。
でも最初から力むと、続かなくなる気がするから、第一回は朝十時でどうだろう。無理せず。十時なら、たいていの飲食店は午前十一時には開店するから、店に困ることもないだろう。
よし、すぐ行こう。明日行こう。
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