「で、あんたは、いじめっ子にも先生にも何にも言わないで、すごすご逃げ帰ってきたわけ?」
思った通り、蝶子は僕たちの決断にご機嫌斜めだった。僕とリョータ、戸塚さんはリビングのソファに3人ぎゅうぎゅうに並んで座り、首を縮めて蝶子の審判を受けていた。
「ばっかじゃないの。どういうことよ。どうしていじめっ子たちがのさばって、なんにも悪くないリョータが学校に行くのを我慢しなくちゃならないのよ?」蝶子は顔を真っ赤にして怒っている。
「だいたい、先生は何やってんのよ。受け持ちの生徒のいざこざに何も口出さないわけえ。ったく、嫌んなっちゃう。すべての子どもたちに教育の機会が保障されてるんじゃなかったわけぇ?この国は」
「そりゃあ、そうなんだけどさ、蝶子」僕は恐るおそる口を挟んだ。
「今、あの教室にリョータが居続けたところで、どうにもならないと思ったんだ……」
「あんたっていっつもそうよ」彼女は僕をジロリと睨むと、低い声で言った。
「肝心なところで逃げて、選択を後回しにする。だから就職だってできないのよ」
「それとこれとは関係ないだろう」僕はムッとする。
「関係大有りよ。リョータにあんたみたいな逃げグセがついて、将来ニートになったらどうするのよ」
「働いてないのは、お前だって同じだろ」
「あら、私は自分で選んでこうしてるのよ。あんたとは違う」
なんてこった。僕は閉口した。こんな程度の低い争いをリョータに見せる方が、よっぽど教育に悪い気がした。しかし本当のところ、リョータの将来にとって何が最善の選択かなんて、自分自身をろくに教育できていない僕に分かるわけはないのだ。
大人たちの言い争いの間で、当の本人はむっつりと押し黙っている。
「リョータもリョータよ」蝶子はきっとリョータを見据えた。「そんな事ですごすご引き下がって。負けっぱなしで悔しくないの。男なら、戦え、リョータ!」
「それは違うんじゃない、蝶子さん」振り向くとゴスピがリビングの入り口に立っていた。
「蝶子さんはさ、女だから戦え、なんて言われたらどう思うの?普段はステレオタイプな考えを押し付けるなって言うくせに、こんな時だけ性別の“らしさ”を押し付けるの?」
「そうか。ごめん」いったん自分の非を認めると、蝶子はすぐに謝る。僕は彼女のそういうところがとても好きだ。
「でも、やっぱり私は立ち向かうべきだと思う。そうじゃなきゃ、このままじゃリョータ一人が負け犬で終わっちゃう。そんなのってないわよ」
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