妖怪処刑人 小泉ハーン

立って逃げろ、追いつかれたらどうする

一八九九年の奇妙に歪んだ日本。文明の光届かぬ開拓地で、妖怪狩りに明け暮れる男がいた。彼の名はラフカディオ・ハーン、またの名を、小泉八雲。
◆伝奇アクションホラー小説『妖怪処刑人 小泉ハーン』シリーズより「ラストハンター」編第1回!◆



「アイエエエエエエエエエエエエエエエエ! 出た! 出たアアアアアッ!」

 富吉は狂ったように喚き散らし、死に物狂いで松林の中を駆けていた。足がもつれ、茂みの中で転がり、枯れ枝と白詰草の茂みの中に頭から突っ込んだ。

「グワーッ!」

 目の前には幸運の象徴たる四つ葉のクローバーがあったが、今の富吉にとっての幸運は、せいぜい提灯の灯りが消えずに持ちこたえた事くらいのものであった。誰も彼の叫びを聞きつける者などいなかった。

 逃げろ。

 追いつかれたらどうする。

 富吉は泡を食って立ち上がり、提灯で後方の闇の中を一瞬だけ照らすと、また走り始めた。

「アイエエエエエエ! 助けて! 助けてくれエーッ!」

 今にも掻き消えそうな提灯の灯りだけを頼りに、彼は街道沿いを闇雲に逃げ回った。

 ここは江戸から西へ四百マイルの開拓地。霧深いキノクニ・ヴァレイの暗黒の松林。空には青褪めた満月がひとつ。この時間には、馬も馬車も往来せぬ。

 もはやこれまでかと富吉が観念したその時、彼は赤い提灯の灯りを見る。

 蕎麦屋の屋台であった。

 何故こんな街外れの松林に、蕎麦屋台が?

 だが、助かった。命拾いをした。

「おい、誰か! 誰かいるかーッ⁉」

 富吉は駆け込んで暖簾をくぐり、席についた。

「どうなさったね、若いの」屋台の奥で、蕎麦屋が言った。「追剝ぎにでも遭ったかね?」

「ハァーッ! ハァーッ! 聞いてくれよ! 追剝ぎなんてモンじゃねえよ! 追剝ぎの方がよっぽどマシだぜ! 俺ァ見たんだよ! ありゃあ、絶対……!」

 妖怪だ。そう心の中で叫び、富吉は怖気を振るった。

「絶対、何ですかい?」

「ありゃあ、絶対……!」

 暗闇の中で見た化け物の貌(かお)が、脳裏に蘇った。

 富吉は頭を振り、それを己の記憶から追い払おうとした。

 あまりの恐怖のせいで、富吉の体は墓場の土のように冷え切っていた。

「……何でもねえよ! それより蕎麦だ! 寒気が止まらねえ! とりあえず、温ったかい蕎麦をくれ!」

「ははあ、何を見たか、わかりましたぜ、旦那。…‥この辺にゃ、出るんですよ」

 蕎麦屋は仕込みでもしているのか、背を向けたまま返した。

「出る? 何がだ⁉ 勿体つけてねえで、いいから蕎麦をくれッて言ってンだよ! このままじゃ、どうにかなっちまいそうだぜ! 頭がよォ!」

 富吉は逆上した。だが、すぐに異変に気付いた。

「イヒヒヒヒ……」背を向けたままの蕎麦屋店主は、不気味に笑い始めたのだ。

 こいつは、何かがおかしいぞ、と富吉が思った途端。

「そいつぁ、きっと、こんな顔の奴だったんじゃあないですかい……⁉」

 地獄の底から響くような不吉な笑い声とともに、蕎麦屋店主は振り向いた。

 そこには、剥かれたゆで卵の如き異形の面相!

 目も、鼻も、口すらもなく、真っ白なラバーめいた皮膚が不気味に蠢いているのみ!

 これこそは、群れ成して旅人を狂気に陥れるという、忌まわしき妖怪の眷属、ノッペラボウに他ならなかった!

「アイエエエエエエエエエエエエエエエエ! また出たアアアアアアア!」

 富吉は叫んだ! 彼は今夜、三度目のノッペラボウに遭遇したのだ! 最初は、街道沿いに座り込んでいた旅の花魁! 次に虚無僧! そして三度目はこの蕎麦屋! 逃げ切ったと思うたび、顔の無い悪夢は富吉を嘲笑うように再び現れたのだ!

「アイエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!」富吉の持っていた提灯の灯りが揺れ、狂気が彼の精神を完全に破壊せんとした、その時!

 松林の暗がりから長さ一メートルの鋼鉄銛が飛来し、屋台の木組みを木っ端微塵に破壊し、富吉の顔のすぐ横を飛び、ノッペラボウの胸に深々と突き刺さった。

「グワーッ⁉」ノッペラボウは血を吐き、三メートルも弾き飛ばされた。

 刃先が背中側まで貫通するや否や、ゴシック様式のハープーンじみた刺々しい鋼鉄銛は、先端部が四つに展開し、鮮肉フックの如くノッペラボウの体に食い込んでいた。もはや引き抜くことは不可能である。

 無様な悲鳴をあげるのは、いまやノッペラボウの番であった。

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ハーン・ザ・ラストハンター: アメリカン・オタク小説集 (単行本)

ブラッドレー・ボンド,杉 ライカ,本兌 有
筑摩書房
2016-10-26

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妖怪処刑人 小泉ハーン

ダイハードテイルズ

時は19世紀末。葵の御紋は未だ死せず。江戸城には無慈悲なる大老井伊直弼。永世中立交易都市たる京都神戸を境に、西部では薩長同盟が勢力を維持。一方、強化アーク灯の光届かぬ荒野には未だ魑魅魍魎が跋扈し、開拓地の人々を脅かし続ける。かくの如き...もっと読む

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