話題の角田光代訳『源氏物語』に迫る!

読み手によって作品は創作し続ける| 角田光代×池澤夏樹【第2回】

2017年10月6日に大阪市・中之島会館「朝日新聞 作家LIVE『源氏物語』を訳すということ」と題して行われた、角田光代さんと「日本文学全集」編者の池澤夏樹さんによる公開対談。「源氏物語」をどのような方針で訳し、どう小説観が変わったか、大盛況の観客を前に語り合った模様の第2回です。


■翻訳 新たな小説を書くこと

池澤 「日本文学全集」では、大勢の作家に現代語訳を手がけてもらいました。作家はわがまま勝手で強情ですから、それぞれが自分のやり方で、まったく違う文体ができあがりました。当然ですよね。僕もそれを狙って頼んだんです。どの作品もうまくいったと思うけど、『源氏物語』はとりわけ、大胆な意図が実現されました。

角田 嬉しいです。先ほどおっしゃってくださったとおり、私は小説を書きたかったんです。
 私と『源氏物語』の出会いは高校の授業に始まって、ときどきエピソードごとに読んで大きな流れは知っていたけど、読み通したことがありませんでした。現代語訳のお話をいただいてからちゃんと読み始めて、日本語だから読めるんだけれども、話のなかに入っていけなかったんです。入っていけないという時点で、私は『源氏物語』を小説として捉えられなかったんですね。
 実際に訳してみると、訳すというのは、これほど読むという行為なのかと思いました。ただ読んでいたときとはまったく違う読み方でした。もっと作品の近くで読むという感じです。
 作品の近くで読んでみると一変、『源氏物語』はおもしろい。ストーリーが練られていて、伏線がいたるところに張ってあって、すべて回収されていく。これにはびっくりしました。これは現代の小説の手法に近いものです。私はこのストーリーを、小説としての流れを全面に出したいと思ったんです。ただし、構成を変えたり、大きく削ったり意訳したりは、消去法でできませんでした。それらをするだけの教養が私にはなかった、あるいはその勇気がなかったからです。ですから、わりあい原文に忠実に訳しています。

池澤 大きな作品の全体が作者の頭のなかにある。おそらく、ある場面を書いて、次の場面をまた書いて、という数珠つなぎみたいなうやり方ではないでしょうね。最初にどのくらい構想があったかはわからないけど、書いていくうちに話が複雑になっていき、それにつれて全部を掌握しなおしていく。
 人物たちの糸が絡み合っていますね。ある場面では、糸は裏のほうに隠れていて読者には見えない。けれども、同じ糸が別の場面で見えてくる。『源氏物語』は、ある一人の女性だけ拾って読んでも、もちろんその人の人生がわかるし、その人と他の人たちとの絡み合いもわかるし、そこから全体の動きをつかむこともできる。これだけの大長編の全体をつかんでいたなんて、紫式部という人は大作家だったと思います。それを訳している角田さんもよくなさっているものです。
 事の大変さがわからないために、なんとなく楽観的に始めてしまうことがある。そうすると途中でやめるわけにいかなくなって、一生懸命やっているうちに、気づけばこんなにできてしまった。世の中にはそんなことがよくあります。角田源氏にはそれが起こったのだと思いますよ。
 実をいえば、「日本文学全集」をつくろうなんて思った僕もそうなんです。ふりかえると結構な大仕事なんだけど、もともと迂闊に始めてしまったことです。その迂闊さがうまくいくことがままあるんですよ。うまくいったときはこうして笑いながら話せるし、途中で潰れたときはなるべく思い出さないようにして忘れる。

角田 そんな池澤さんにお聞きしたいです。池澤さんは「日本文学全集」を通して、古典をずっと見ていらっしゃいますよね。すると、なぜこれらの物語が今に残っているのか、感触としてつかめるものですか。

池澤 とても魅力がある物語だから、皆が大事にしたんでしょうね。その一方で、消えてしまった物語がたくさんあります。それらも見つかってほしいという口惜しい思いもあるけれども、でもこんなに残ってくれて、きちんとテキストとして今に伝わった。それは、そのときどきで誰かが、原本を書き写して広めたり、散らばっていたものを集め直したりしたからです。よほど好きじゃないとできないですよね。そうして綿々と文学を大事にしてきたファンがいた。つまり、文学によって自分たちの気持ちがあらわせることを知り、夢中になった人たちが常にいたということです。しかも日本ほど文学史が長い国はそうそうありません。
 古代、ギリシアとローマがありましたが、当時の言語はなくなった。ヨーロッパのあちこちに散らばって、フランス語、スペイン語、イタリア語、それぞれ異なる言語に派生しました。日本語のように連綿と続く言語は珍しい。幸いこの国は大きな戦乱がなく、いちばん大きなもので応仁の乱でしょう。都が焼ければ、誰かが本を持って地方に逃げた。それを僕らは宝として今も読むことができる。この長い時間を受け継いで、皆で楽しく読みましょう。それが「日本文学全集」の基本方針です。


■『源氏物語』の男と女

池澤 たぶん僕は男だから、『源氏物語』を読むとき、一人ひとりの女の心の中に入る読み方が案外できていない気がします。女性たちは、自分が葵の上だったら、自分が六条御息所だったら、自分が明石の君だったら、と感情移入して読むのかなと思うんですけど、角田さんはどうですか。

角田 『源氏物語』に初めて触れたときから今にいたるまで、同世代の女性たちが「『源氏物語』のなかで誰が好き?」と話しているのを聞いて、ぎょっとしてきました。なんて知的レベルの高い会話だろうと思ってしまうんですよね。
 ただこうして『源氏物語』に関わってみると、女性たちが細やかに書き分けられていることにびっくりします。私が書き手として興味をもったのは、女性たちが性格で区別されているわけではないということです。男勝りだったり、負けず嫌いだったり、泣き虫だったり、という性格で書き分けられていない。では何で書き分けているかというと、感情です。それも、光源氏という人を中心にした感情で書き分けられている。
 当時、女性は人格があってないようなものだったと思うんです。部屋に座っているところに誰かが押し入ってきたら、もう従うしかない。そんなふうに人格が認められていない女たちだけれども、でもこれほど感情があったんだということを作者は書いているような気がして。
 現代語訳を引き受けたとき、私は千年前のお話を現代の私たちにリンクさせたいと思ったんです。でも私がわざわざ仕立てるまでもなく、ちゃんと原文のほうで現在に通じるものが書かれていたんですよね。以前の私は、たとえば六条御息所のことを、嫉妬深くプライドの高い年増の女性だろうと思っていました。生霊となって祟るという有名な話がありますから、そのイメージをもっていたんです。でも近くで読んでみると、そうじゃないんですよね。清楚で奥ゆかしく教養がある人だけれど、光源氏より年上のために素直になれず、そんな歯がゆい位置にいるしかない。ある小競り合いが起きたときに、彼女は自尊心を踏みにじられてしまいます。ところが彼女は、そこまでひどく自尊心が傷ついていると自分では思っていないんです。だから自分の生霊がどこかをさまよっているかもしれないと聞いて、ものすごくショックを受ける。そんな恥ずかしいことになっているなら、いっそ伊勢に行こうと決めます。決めた途端に光源氏がやって来て、行ってくれるなと引き留める。すると彼女は心が揺れて留まってしまう。
 「もう諦める!」と決めたときに、ちょろちょろっと心惑わせることを言われて、「ああもう!」という気持ち。そのまま、現在の私たちが恋愛において感じることですよね。『源氏物語』には私たちと共通する感情が書かれているんですよね。
 私は現代の小説の書き手として、人物はまず性格を決めて、そこにあてはめてキャラクターをつくっていくのですが、『源氏物語』はまず感情を寄せ集めて、そこから人間を一人ずつつくっていく。その手法がひじょうに鮮やかです。

池澤 「彼女は泣き虫だった」と書くと、彼女が泣き虫だったということでしかないんです。しかし、ある状況で「彼女はこんなふうに泣いた」ということを書くと、ある感情を通じてその人を表現することになる。彼女はそういう状況で泣く人なのだ、そういう感情をもつ人なのだ、とわかってくるでしょう。人間がフラットなものでなく、丸い奥行きのあるものとして見えてくる。それが物語から小説に変わるということです。
 そういう見方をしてくれるから、『源氏物語』は角田さんに頼んだんですよ。

角田 私自身、『源氏物語 上』が終わっていろんなインタビューを受けるなかで、再び感じていることなんです。葵の上について説明したことがありました。葵の上が本当はどういう人かはわからない。たとえば、両親や友人に対してどういうふうに接しているのかはわからないんです。でも光源氏に対しては、あまりに綺麗な男の子が来てしまって、自分が彼より四歳上であることが気恥ずかしくて、かえって素っ気ない対応しかできない。そのことを話したら、インタビュアーが「ツンデレですね」と言ったんです。たしかにそうですよね。そんなふうに『源氏物語』は、今の言葉に置き換えられる設定になっているんだなって。

池澤 その場合、ツンがあってもデレでないですね。

角田 ああ、本当だ。ツンですね。

池澤 ふるまいを通じて女性たちが出てくる。六条御息所が自分でも驚いて困ってしまうところは深みがありますよね。そうでなければ、「彼女は化けて出るほど嫉妬深かった」で終わってしまうでしょう。本人こそが自分の感情に当惑しているということ。藤壷にしたって、うっかり過ちを二度三度と犯してしまったけれども、その後はけっしてくり返すまいと、頑として光源氏を受けつけない。その気丈さがふるまいから伝わってきます。そうやって一人ひとりの違いがわかりますね。その違いがあるから『源氏物語』は大小説に成り立っているんですよね。

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話題の角田光代訳『源氏物語』に迫る!

「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」編集部

発売以来、話題騒然!角田光代による新訳『源氏物語 上』。 『八日目の蟬』など数多くのベストセラー作を生み出してきた角田さんが“長編小説断ち”宣言をしてまで、現代語訳を引き受けた理由、実際に訳しはじめてからの苦労や「源氏物語」の魅...もっと読む

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コメント

bun_soku 【対談】 https://t.co/WZBES7uJ2S 6ヶ月前 replyretweetfavorite

Kawade_shobo 更新しました! 6ヶ月前 replyretweetfavorite

ikb 『日本語のように連綿と続く言語は珍しい。幸いこの国は大きな戦乱がなく、~。都が焼けれ… https://t.co/f0AF0R86CF 6ヶ月前 replyretweetfavorite