自己犠牲する母はなぜ「泣ける」のか(前編)

不道徳なお母さんライターが、日本の「道徳」のタブーに踏み込み、軽やかに、完膚なきまでに解体! 歴史をさかのぼり、日本人の「道徳観」がどのようにつくられていったか、その過程をさぐります。
さて、現代日本でもっとも身近な「感動コンテンツ」にして、アンタッチャブルな聖域……それは「子のために生きる母」。実は、この母性神話が誕生したのは、意外やそう大昔ではないようで!?

あふれる「がんばるママへの応援歌」

現代日本で感動を呼ぶ鉄板コンテンツ、それが「母」だ。アスリートが活躍すればその母親がいかに陰で尽くしたかがクローズアップされ、「家事育児を一人でがんばるママへの応援歌」「都会で暮らす我が子を思う田舎の母」は、感動CMの定番である。

フィクション、ノンフィクション問わず、「田舎」に住み「無学」で「趣味を持たず身なりにもかまわず子に尽くすことだけが生きがい」の母の自己犠牲は、日本人の琴線をくすぐるようだ。母は社会的に無力であればあるほどよく、苦労が報われることなく死ねば、その存在はどこまでも聖化される。もちろん母親の献身の対象は子供でなければならず、間違っても仕事に生きがいを見出してはならない。忌野清志郎が歌った「昼間のパパは男だぜ」(1990年清水建設CMソング「パパの歌」)というフレーズは今もって魅力的だが、「昼間のママは女だぜ」では、そのCMは感動とは別の方向へと転ぶだろう。

正しい母親の条件は「自然」「伝統」「自己犠牲」

母親を取り巻くエセ科学も、伝統育児で発達障害を予防できると謳う「親学」を筆頭に、出産への医学介入を否定する「自然分娩」、紙おむつを有害視する「布おむつ育児」、日本の伝統食で子供のアレルギーが治るとする「玄米菜食」など、母親に「自然」「伝統」「自己犠牲」を強いるものが多い。自然育児には無縁でも、オムライスやハンバーグといった子供に人気の洋食の頭文字をとって食卓の西洋化を戒める「おかあさんやすめ」「ハハキトク」という食育標語を、母親なら幾度となく見かけたことがあるだろう。まるで「伝統的な和食をつくらない怠け母は死すべし」と呪いをかけているかのような標語である。普通はエセ科学といえば「〇〇を飲むだけダイエット」「〇〇さえすれば病気が治る」とラクを売り物にすることが多いのに、母親相手の商売となると苦労を強いる方向に向かうのは、考えてみれば不思議なことだ。

年がら年中尊ばれ、応援してもらってるんだから、ありがたく受け止めるべきなのだろうか。しかしそうもいかない事情がある。「自然(田舎)」「伝統」「自己犠牲」の要素からなる母性幻想からはみ出した生身の母親は、常にバッシングにさらされているからだ。保育園に預けて働くホワイトカラーの母親には「自分の自己実現のために子供を犠牲にした」と罵声が飛び、保育園に入れず仕事をやめなければならないことを嘆く母親は「都会に住んでいるのが悪い」と切り捨てられる。冷凍・レトルト食品、ベビーカー、スマホ、ヒール、ネイル、電車……これらを利用する母親への批判は、ここに書き出すまでもないだろう。

こうした母性幻想による抑圧の結果、子供のいる日本の女性フルタイム労働者の賃金は男性賃金のわずか39%に過ぎず、OECD加盟国平均(78%)の半分、ワースト2の韓国(54%)にも大きく水をあけられ、ワーストトップをひた走る(「Closing the Gender Gap 2012」data)。格差を与党がどうにかする気がなさそうであることは、2017年の総選挙時にSNSでいやというほど目にした公明党のCM「母の手に守られて」からもわかる。朝早くから夜遅くまで母子家庭の母親が仕事を掛け持ちして働いているが、一人娘の私立高校進学費用も出せないほど困窮している。私立高校授業料の無償化をアピールするCMだが、長時間労働をしても学費程度の賃金すら得られない母親の差別的な境遇は感動要素として扱われ、問題としては提起されない。母親の貧困は母親の自己犠牲を尊ぶ人々にとっては萌え要素であっても、働く若い女性たちからすれば恐怖だ。かくて女性たちは産み控え、少子化はやむことがない。

本当は怖い『古事記』の母親

母性幻想に取り巻かれて暮らしていると、「これは日本人のDNAなのだから、このまま滅びるしかないのかも…」とつい遺伝子に責任を転嫁して思考停止したくなる。しかし日本文化史を振り返れば、子供のために自己犠牲する母親像というのは、さほど長い歴史を持つものではない。

日本の地母神にあたる『古事記』のイザナミは火の神を生んですぐに死に、ウジをわかせながら「地上の人間を毎日1000人殺す!」と宣言する破壊神のような存在だし、女神アマテラスは世界に闇をもたらした怒りの引きこもりエピソードばかりで知られているし、アキヤマノシタヒの母に至っては8年間病に伏せる呪いを息子にかける毒母だ。平安時代末期の説話集『今昔物語』の「女、乞匂に捕へられて子を捨てて逃げたる語」(巻29 第29)では、浮浪者に襲われた女性が子供を置いて逃げたために子供は殺されるが、それを知った武士は貞操を守ったことを褒めたたえ、作者も「下衆の中にも、此く恥を知る者の有也けり」と感心する。子供の命は貞操より軽いのだ。

それでもさすがに女性が書いた和歌なら子供への思いを歌い上げたりしてますよね、と古文で習った親バカ和歌を思い出そうにも、『万葉集』の「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ…」(山上憶良)に、『土佐日記』の「世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな」(紀貫之)と、頭に浮かぶのは男性ばかり。貴族の女性は乳母に子供の養育を任せるのが通例で、子供との日常的な愛着関係があまりなかったのだろうか。

殺伐としていた「自然」「伝統」育児

では貴人ではない、庶民のオカンはどうだろう。庶民の母親文化は近世から伝わる子守歌から伺い知ることができるが、子供に尽くすどころではない女たちのブルースに打ちのめされる。

かか欲し、かか欲し、おかか欲し、おかかもらって何にする。
昼はまま炊き、洗濯に、夜はぼちゃぼちゃ抱えて寝て、抱えて寝たけりゃ、子ができる。
女の子ならおっちゃぶせ(おしつぶせ)、男の子ならとりあげろ、
とりあげ婆さん名はなんだ、八幡太郎とつけました。
「高良田の子守歌」茨城県筑波郡谷田部町(『日本の子守歌』松永伍一)

男性目線で道具としての女の生を淡々と歌い聞かせたあげく、生まれた子が女の子なら殺すという、なんともすさまじい歌である。現代の保守層が夢見る伝統育児を実際に担っていた母親たちの内面は、口減らしのための子殺しが珍しくなかったこともあって、甘やかなものではなかった。このような恨み節は、日本の子守歌では珍しくないという(『子守唄はなぜ哀しいか』石子順造)。

つらのにっかったろ うち殺(これ)ておくれ
親にゃ こき死んだと いうておくれ
(私の顔が憎いから泣き止まないのだろう。殺してくれ。故郷の親には死んだと伝えてくれ)
「ねんねしなされ」熊本県葦北郡葦北町湯浦の守子歌

守りよ守りよと 楽そに言うてじゃナ
守りが楽なら してみやれ
(…)
あの子憎い子じゃ まな板にのせてナ
大根切るよに きざみたい
「守り子守りよ」多紀郡今田町本荘の守子歌

これらは子守奉公に出されていた少女目線の守子歌だが、育児の暗黒面が母性コーティングされずにむき出しで投げ出されている凄みがある。母親であれ、子守の少女であれ、女が尽くす対象はあくまで家長であり、家であり、ひいては家を束ねる村落共同体であって、子供ではなかった。また従属することに「わたし、家長に尽くせれば何もいらない。家長と一緒にいられて幸せ」という内発的な動機づけもない。動機も何も、従属以外の道はないのだ。

庶民の母、とくに農家の母は忙しく、昼間は幼子の世話を子守に任せ(もしくは「エジコ」と呼ばれる木製の桶に入れっぱなしにして)、家業、炊事、洗濯などの雑事に追われるのが日常だった。子供は子供で、7,8歳にもなれば家業の手伝いをしたり、下の子の子守をしたり、奉公に出たりと、むしろ家に尽くす存在となる。学校制度も職業選択の自由もない世界では、教育とは息子に家業を継がせる訓練で、それはもっぱら父親や子供組・若者組の仕事だった。

「子供の死」を前提とした感動美談

江戸時代の町人に好まれたフィクションでは、母親はどのように描かれていたのだろう。

「泣ける」母親像ということでいえば、歌舞伎『伽羅先代萩』で幼い君主を守るために我が子の命を差し出す乳母政岡が有名だ。目の前で嬲り殺しにされた子の遺骸を抱きしめながら、「コレ千松、よう死んでくれた」「とは言ふものの可愛やなア」と嘆く母親の姿は、母の言いつけを守って死んだ幼児のけなげさと相まって人々の涙を誘う。とはいえ母の献身の対象はあくまで君主であって、子供のほうが母の仕事のために命を投げ打つのだから、「子供に対する母の自己犠牲」という現代の泣き要素とは方向性が逆である。

夫婦が主君の子息の身代わりに我が子の首を捧げる歌舞伎『寺子屋』、夫婦が娘の命と引き換えに主君の密命を果たす人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」も同様だ。封建社会では、母親の子供への愛情はそのままでは美談とならず、子の命を主君に差し出す忠義を示すことによって、初めて美談となる。

子供をたよりに不幸な結婚に耐える母親像

断定はできないが、明治28年発表の樋口一葉『十三夜』が、子供のために自己犠牲する女性が描かれた最初期の作品ではないだろうか。夫のモラハラに離縁を決意したヒロインが父親に説得され、「ほんに私さへ死んだ氣にならば三方四方波風たゝず、兎もあれ彼の子も兩親の手で育てられまする」「魂一つが彼の子の身を守るのと思ひますれば良人のつらく當る位百年も辛棒出來さうな事」と一人息子の太郎のために翻意する。まさに子どもに献身する母の鑑である。ただし後半は太郎そっちのけで、かつてひそかにひかれあっていた男性とのやりとりがメインとなる。この作品から受け取れるのは、かなわなかった純愛への感傷であって、子のための自己犠牲は不幸の一要素でしかないように見える。少なくとも「つらいけど子供さえいれば幸せ」という前向きな話ではなさそうだ。

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堀越英美

核家族化で家庭教育はダメになった? 読み聞かせで心を育てるって……本当に? 日本で盲信されてしまっている教育における「道徳」神話の数々。そのすべてを、あの現代女児カルチャー論の名著『女の子は本当にピンクが好きなのか』でセンセーションを...もっと読む

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dubbedpachi 〈忌野清志郎が歌った「昼間のパパは男だぜ」(1990年清水建設CMソング「パパの歌」)というフレーズは今もって魅力的だが、「昼間のママは女だぜ」では、そのCMは感動とは別の方向へと転ぶだろう。〉 https://t.co/qMkLf1rZOK 1年以上前 replyretweetfavorite

sejulty3 自己犠牲する母親の物語が好きなババアやオッサンは、全員これを読んで、そんなんマヤカシだと思い知ってほしい。 2年以上前 replyretweetfavorite

moxcha 合わせてこちらもおすすめしたい。 https://t.co/j6bdPQEuAE https://t.co/kc9ZbRKJFr 2年以上前 replyretweetfavorite

kinomiya_eiko 納得。 自分の価値観はだいたい幻想。 2年以上前 replyretweetfavorite