05 デカルトは想像力で「癒す」
最も弱い魂の持ち主でも、魂を訓練し指導するのに十分な工夫を用いるなら、あらゆる情念に対してまさに絶対的な支配を獲得できるのは明らかである。 ―『情念論』第一部五〇項
文豪・芥川の『手巾』に描かれた心の襞
芥川龍之介に『手巾』(一九一六年)という印象的な短篇があります。息子を喪った母の話です。悲しみに浸る彼女の姿を、日本文学を代表する彼はどのように描いたでしょうか。
舞台は、息子が学生時代に世話になった大学教師の応接間です。彼女は、闘病の甲斐なくこの世を去った息子のことを、思い出話を交えながら報告します。
「こんな対話を交換している間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙措なりが、少しも自分の息子の死を、語っているらしくないと云う事である。眼には、涙もたまっていない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑みさえ浮んでいる。これで、話を聞かずに、外貌だけで見ているとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語っているとしか、思わなかったのに相違ない。―先生には、これが不思議であった」
先生はそう思いながら、手にしていた団扇を何かの拍子で床へ落としてしまった。婦人の白足袋あたりに落ちた団扇を拾おうと、先生は屈みます。
「その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持った手が、のっている。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるえているのに気がついた。ふるえながら、それが感情の激動を強いて抑えようとするせいか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりに緊く、握っているのに気がついた。そうして、最後に、皺くちゃになった絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれているように、繡のある縁を動かしているのに気がついた。―婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである」
悲しみを必死に堪える母の繊細きわまる描写です。涙は押し止めても、手の震えまでは抑えられなかった。
そこでここでは、「感情の激動を強いて抑えようとする」この母の心のうちにデカルトと一緒に分け入ってみたいと思います。感情をコントロールするにはどうすればよいか、それを彼とともに考えてみたいのです。
「喜び」をもって「悲しみ」を制す
デカルトであれば芥川の描き出す「婦人」のどこに注目するか、まずはそれから考えてみましょう。フランス人哲学者は日本人文学者の用いた「外貌」という単語にまずは注目するはずです。人を外から見た様子です。
あらゆる感情は、身体にある具体的な形をとって必ず現れます。デカルトはそれを『情念論』第一一二項のなかで「表徴」という聞き慣れない言葉で表現しています。すでに「デカルトは冷静に『驚く』」のなかでも宮廷画家ルブランの素描とともに紹介しましたが、具体的には「眼と顔の働き、顔色の変化、震え、無気力、気絶、涙、呻き、ため息」です。喜怒哀楽で言うなら、「喜び」や「楽しみ」は笑いを、「怒り」は震えを、「哀しみ」は涙を、それぞれ生む。そしてそれらはいずれも視認できます。悲しみそれ自体は実際には見えませんが、悲しみを原因として生じた涙であれば外から見ることができるのです。 さて、「婦人」の「眼には、涙もたまっていない」。ということは、デカルトによれば少なくとも二つの可能性が考えられます。
まず、『情念論』第一二八項によると「極度の悲しみから涙は生まれない」ので、「婦人」は悲しみに打ちひしがれている。ただ、そのような状態であれば、おそらく立ち上がることは難しい。しかし、彼女は「先生」のところに挨拶に行っている。ということは、悲しみはある程度は収まっているはず。少なくとも「極度の悲しみ」に押しつぶされているわけではない。
しかし、完全には癒えてもいない。デカルトが言う「中くらいの悲しみ」をまだ心のうちに抱えている。「婦人」はそれを「先生」の前で「抑えている」。しかも「強いて」と作家が強調するほどに。だから、涙が出てこない。デカルトの図式で言うなら、精神(魂)は悲しみを感じないようにしているから、つまり精神のうちには悲しみが存在していないに等しいから、それに対応する身体の側の「表徴」である涙が流れてこない。
さて、ここでもう少し理解を深めたいのは、この「抑える」という行動です。デカルトであればこう問うはずです―たしかに私たちは悲しみを完全に消し去ることなどできない。せいぜいできるのは「遠ざける」くらいのことではないか、つまり「抑える」くらいのことではないか、と。『情念論』第四五項を見てみましょう。
「私たちの情念は、意志の作用によって直接に引き起こしたり取り除いたりすることはできない」
つまり悲しみは、正面切って立ち向かっても消せない。またその反対に、悲しくなろうと気合を入れても悲しくなんかなれない。
なるほど、応接間で差し出された茶菓子を取ろうと思えば自然に手が動く。食べ過ぎかしらと思えば自然に手が止まる。手を動かそう、手を引っ込めよう、そうしようとする「意志」を持てば、身体は自ずと言うことを聞いてくれる。
しかし感情のほうは、なかなかそうはいかないのです。悲しみよ、鎮まっておくれ、と頼み込んでも、聞き入れてはくれない。それでは、どうすればよいのでしょうか。次の引用を読んでみてください。
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