前回で「他人の苦悩を想像で代弁すると"傲慢"になる」というコラムを書いたところ、「当事者にしか語る権利がないなら、フィクションを書いてはいけないことになる」、「この考え方を進めると、ポリコレの表現規制になる」、「他人の苦悩を想像して表現するのが芸術ではないか?」といった反論をいただいた。
小説や詩を含めた芸術に関しての上記の懸念は、いずれも妥当なものだと思う。
しかし、フィクションを否定するつもりがないことや表現規制の意図ではないことは、前号にも書いた。 それでも誤解した読者がいたのは、私の説明不足だったのだろう。
そこで、今回は他者の苦悩を表現するフィクションの重要性を考えたい。
実際に起こった事件や戦争、ホロコーストなどを題材にした場合、資料を調べたり、取材をしたりしたら、自動的に当事者を代弁したフィクションとして認められるべきなのだろうか? 当事者にとって傲慢ではない代弁とそうでない代弁があるのか? 当事者を代弁するフィクションが批判されるのはどういうときなのか?
これらにまつわるジレンマを掘り下げてみようと思う。
私は、年少のころから活字中毒で、ノンフィクションからフィクションまで広範に雑読している。アメリカに移住してからは入手しやすいこともあって英語の本を読むのが中心になり、年間200冊以上は読んでいる。
2008年に始めた「洋書ファンクラブ」というブログでご紹介している英語の小説のなかには作者が自分の体験をもとにしたものもあるが、当事者ではない作者の創作が大多数だ。その大部分は当事者の心境を見事に伝える優れた作品であり、『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア社)でも、そういったフィクションをお薦めしている。
では、前回で取り上げた詩とこれらのフィクションは、どこが異なるのだろうか?
読者からいただいた反応のなかに、その答えのヒントがあると思った。
「体験者でもないのに、わかったつもりになっているのが傲慢」
「障害者や災害、事件の被害者を物語化した感動ポルノなどが陥りがちな罠」
「苦しい自分の体験が、他の人のエンターテイメントのための消費物にされてしまう」
「もっと的確に表現できていたら、受け入れられていただろう」
私がふだん読んでいるのは英語の本なので、洋書の例からこれらの見解を説明しようと思う。
男性が若い女性の立場で書いた成功例と失敗例
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。