安心を買うビジネス」の先にあるもの

「受注数世界一の、殺しの会社を創りたいんです」
女子大生、桐生七海は本気だった。「営業」ができない、「広告」も打てない、「PR」なんてもってのほか、世界一売りづらい「殺し」をどう売るか――、そんな無理難題を「最強のマーケティング技巧」を持つ西城に弟子入りすることで解決しようとする七海。今話題の書店経営者が初めて書く新しいマーケティング&エンタメ小説、第6回。

七海は上手側のドアから客席に入り、壁伝いに前のほうを目指す。なるべく、ヒールの音を鳴らさないように気をつけても、コンクリートにリノリウムが張られた床は、コツコツと音を鳴らしてしまう。けれども、開演前の緊張感が、七海の存在を無にさせる。

観客は、慎ましくざわめきながらも、緞帳の向こうにいる今日の主役に、そして、今日の演奏に想いを馳せているのだ。

七海はこれまで幾度となく、コンサートや舞台の公演の運営、警備を請け負ってきた。何度経験しても、まるで飽和水蒸気量に至ったかのような、会場を満たす目に見えないボルテージに浸るのがとても好きだった。

もうすぐ始まる。

それぞれの観客が出すポジティブな緊張感が、化学反応を起こしてその濃度を濃くしているかのようだった。

七海は、上手側前方のブロック、前から三列目に座っている、妖艶な背中を見つける。ざっくりと背中があいた濃い青のイブニングドレスから見える肌は、薄暗い会場の中でも滑らかさがわかるほどに白く、いい具合に肉感的で、横から見ると豊満な胸が溢れそうになっているのがわかる。それなのに、座ってもたるむことのないウエストがあって、すっと背筋が伸びて居住まいがとにかく美しい。

ずるいな、と七海は内心、嘆息する。

天才心臓外科医藤野楓は、女性である七海が羨むほどにセクシーだった。作られたセクシーではなく、まるで野生動物が生来持っている美しさを、自然のままに出しているという感じで、嫌らしさや粗雑さが少しも感じられなかった。高級なベロアを全身にまとっているように、存在自体が艶やかだった。

七海は、空けていた藤野楓の右隣の席に体を滑り込ませるように座った。 藤野も気づき、笑顔で頷く。

「今日だけは本当に呼び出しを切らせてほしい」

藤野は膝の上のハンドバッグに手を置いて言った。中には医療用緊急回線のPHS端末が入っているのだろう。今日は通常の手術の予定は入れていないはずだが、普通なら、一日に何件も難しい心臓のオペをこなす。この人でなければ解決できないオペが世の中にはある。日本中、いや、世界中に藤野のオペを待っている人がいる。

それでも、今日くらい本当に最後まで聴かせてやってほしいと、誰にともなく七海は願いたい気持ちだった。いつも、この藤野は本当に多くの人の命を救っている。それは、彼女にしかできないことだった。七海は彼女の奇跡のような技をよく知っていた。

「警備は万全です」

七海は少しでも安心してほしくて、藤野の耳元で囁くように言う。 藤野は口元に意図して笑みを浮かべながらも、緊張した面持ちで頷いてみせた。 誰よりも、山村詩織のことを心配しているのは藤野だった。

—安心させる。それがビジネスになる場合がある。

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殺し屋のマーケティング

三浦崇典

「受注数世界一の、殺しの会社を創りたいんです」 女子大生、桐生七海は本気だった。「営業」ができない、「広告」も打てない、「PR」なんてもってのほか、世界一売りづらい「殺し」をどう売るか――、そんな無理難題を「最強...もっと読む

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