かつて東京には、小説家・村上春樹に会いたければいつでも会いに行ける場所があった。79年から82年の千駄ヶ谷。デビュー後、いくつかの作品を発表して専業作家になるまで、村上はピーターキャットというジャズ喫茶を経営していた。村上の小説を読み、彼に興味を持った当時の読者は、ひょいっと総武線に乗りさえすれば、本人の姿を見に行くことができたのだ。ほとんど人前へ出なくなってしまった現在からすると、何だか信じがたい話である。
エディターの川勝正幸さんは「村上の小説を読んですぐに店へ行き、彼に作ってもらった水割りを一杯だけ飲んで帰ってきた。小説のことをあれこれ質問するのは不粋におもったので、会話はしなかった」(*1)そうである。村上春樹の作った水割りを飲んだというエピソードが、何だかとてもうらやましかったことをよく覚えている。
村上が、京都で講演を行うというニュースが飛び込んできたのは4月上旬。ピーターキャットには間に合わなかった僕にも、ついに村上本人に会える可能性が出てきたのだ。国内で公の場に姿を見せるのは18年ぶり。くわえて、インタビュー嫌いを公言する彼が、500人の聴衆を前に公開インタビューに応じるという。
考えてみれば、日本でもっとも話題性のある作家でありながら、2009年にエルサレム賞のスピーチが中継されるまで、ほとんど誰も「動く村上春樹」を見たことがなかったのだから、彼の隠遁はかなり徹底している。トマス・ピンチョンをお手本にしているのかとおもうほどだ。よくここまで、人前に出ることを避けつづけられたものだと感心してしまう。
だからこそ、今回の講演に対する意外性はエルサレム賞の比ではない。それにしても、公開インタビューとはいったい本当なのか。村上を直接見られる機会など期待すらしたことがなかった。定員に対してどれほどの応募があるのかは想像もつかないが、僕はどうしても、このウィリー・ウォンカのチョコレート工場へ入る金色のチケットを手に入れたかった。
おそらく僕だけではないが、熱心な村上ファンは、世間からの注目を避けてひきこもる村上に対して同情的な気持ちでいる。彼はたくさんの読者に愛され、支えられているが(そうでなければ、これほどに長く支持される理由がない)、同時に「村上春樹」が現象としてあまりに大きくなりすぎたために、誤解や中傷も多い。こうした状況については説明不要だろう。「職業的小説家という看板をいちおう掲げて生活していると、痛い目にあうこともある。泥玉を投げつけられることもある」(*2)と村上は書くが、彼がときに泥玉よりももっと悪質な何かを投げつけられるようすを、たいていの場合、村上読者はなすすべなく、ただじっと眺めるしかない。彼が新作を発表するたびに、ノーベル文学賞に他の作家が選ばれるたびに、おなじみの泥玉があちこちで飛び交い、そのあいだ村上読者たちはじっと首をすくめて、人びとが泥玉を投げ飽きるのを待つのだ。
それでもなお聴衆の前に立つという今回の選択には、きっと村上なりの意図があるのだろうから、この京都の公開インタビューには、村上春樹を大切におもっている読者が集い、壇上に立つ本人をあたたかく励まして、彼が「こうして人前に出るのもわるくないな」と感じるような場になるべきだとおもう。何なら、講演が終わった後、近くの飲み屋で愚痴を聞いてあげたっていい。「嫌いな評論家は誰ですか。あー、あの人はろくでもないですね。そろそろビール頼みますか」と、親身になって村上の話を聞くのだ。
チケットの申し込み後、ややあって当選の知らせが届くが、僕は興奮しつつ、一方でどこか当然のように感じてもいる。倍率とはいっさい関係なく、僕ほどに村上春樹という小説家を大切におもっている読者はいないのだから、チケットは当たるはずなのだ。僕はすぐさま京都までの新幹線の往復チケットをおさえ、京都市内の宿を予約する。当選から数日のあいだに、東京FMより当日の電話取材の依頼が入り、cakesでレポートを寄稿することが決まる。やはり村上春樹は人気があるのだとおもう。
公開インタビュー前日。開催地である京都に着いてもなお、村上が本当に現れるという気がしない。せっかく京都に来たのだからと、一応は観光のまねごとなどもしてみるのだが、何より明日の講演が気になって集中できなかった。来るのかな、村上さん。だいたい、自発的に人前へ出る村上春樹というのはイメージがわかない。
それはまるで、魚に対する興味をすっかり失ったさかなクンとか、体罰をためらう戸塚ヨットスクールみたいな感じで、どうにもしっくりこないのである。途中で気が変わって、家に帰ってしまうのではないか。「うーん、やっぱりこういうのって僕の柄じゃないから、止めますね」などと言いわけしつつ、京都駅から新幹線に乗ってどこかへ消えてしまったらどうするのだろう。
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