人々のスプートニクへの反応は、アメリカの政治家にとってもソ連の政治家にとっても驚きだった。小さな人工衛星がこれほどまでに世界の人々の注目を集め、熱狂的興奮やショックを与えるものだとは想像していなかったからだ。それ以降、味をしめたソ連も、焦ったアメリカも、莫大な国費を宇宙開発に注ぎ込むようになる。
フォン・ブラウンの成功から半年後、アメリカは新たな国家機関を発足させた。アメリカ航空宇宙局、NASAだ。そして一九六〇年、フォン・ブラウンの陸軍弾道ミサイル局はNASAに移管され、NASAマーシャル宇宙飛行センターと改称された。(僕が勤めるJPLも同時に陸軍からNASAに移管された。)フォン・ブラウンはついにミサイル開発から解き放たれ、宇宙開発に専念する環境を手に入れたのだった。もはや金策に走る必要もなくなった。
技術とは天才の脳から勝手に湧き出るものではない。技術開発には金が要る。一九六〇年代に宇宙開発が爆発的に進んだのも、ひとえに莫大な資金が投入されたからである。スプートニクからわずか四年後の一九六一年、世界初の宇宙飛行士ガガーリンがコロリョフのR7ロケットに乗って宇宙へと飛び立ち、「地球は青かった」という詩的な言葉を持ち帰った。その三週間後、アメリカ初の宇宙飛行士アラン・シェパードが、フォン・ブラウンのレッドストーン・ロケットで宇宙へのサブオービタル飛行を行った。
たしかに宇宙開発は冷戦のプロパガンダだった。それは事実だ。だが、よく見落とされている点がある。なぜ宇宙だったのか、という点だ。なぜ原爆実験や軍事演習や軍事パレードといった直接的な方法ではなく、宇宙開発という一見まわりくどい方法で国力を誇示する必要があったのだろうか?
あの「何か」が、フォン・ブラウンやコロリョフだけではなく、人々の心に根を張っていたからだ。それはSF小説やテレビ番組などを通して世界中の人の心に浸透した。人々は核ミサイルでお互いを殺しあう破滅的な未来ではなく、月や火星へと自由に旅する進歩的な未来を望んだ。だからこそ、高級車を作る国でも原子爆弾を作った国でもなく、宇宙飛行を最初に達成した国こそが科学技術の最先進国だと世界の人々が思ったのだ。
そして皮肉なことに、もとはミサイルとして開発されたR7とレッドストーンは、結局は兵器として使われることは一度もなかった。R7やレッドストーンは液体式ロケットである。先に解説した通り、液体式ロケットは宇宙へ行くためには最適だが、燃料を搭載した状態で保管できず即応性が低いため、兵器としては使い勝手が悪かった。結局、ミサイルとしてもっぱら用いられたのは即応性の高い固体式ロケットだった。フォン・ブラウンやコロリョフが義心からわざと無用な兵器を作ったのではなかろうが、宇宙を夢見る心から生まれた機械はやはり、宇宙を飛ぶようにできていたのである。宇宙開発が冷戦のプロパガンダに利用されたのではない。利用したのである。
フォン・ブラウンはNASAマーシャル宇宙飛行センターを率い、潤沢な資金を使って史上最大のロケットを完成させた。サターンV。重量はV2の二百倍の3000トン、高さは110メートル。現在でもこれより巨大なロケットは作られていない。
フォン・ブラウンと、⽉ロケット・サターンV。 Credit:NASA
一九六八年、三人の宇宙飛行士を乗せたアポロ8号が、このロケットによって地球から月軌道へと打ち上げられた。月着陸こそしなかったが、人類が地球の重力圏を脱するのも、他の星を周回するのも、史上初めてだった。アポロ8号の旅は、百年以上前に書かれたジュール・ベルヌの『地球から月へ』のストーリーをそのままなぞるかのようだった。三人の男はフロリダから飛び立ち、月軌道から月面を間近に観察し、そして太平洋に帰還した。世界中の子供たちやロケットの父が熱狂したSFは、百年の時を超えて現実のものとなったのである。
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