「アメリカで宇宙ロケットを作る。」
そう夢見て海を渡ったフォン・ブラウンだったが、雇い主は陸軍で当初は移動の自由も制限され、十年経ってもミサイル開発しかさせてもらえなかった。
「忍耐だ。」
それはそう、フォン・ブラウンの心を諭したのかもしれない。彼はいつかチャンスは来ると信じてロケット開発に打ち込み、V2のさらに二倍の大きさがあるレッドストーン・ロケットを完成させた。
彼には夢だけではなく、巨大なエゴがあった。ただ人類が宇宙へ行くだけではなく、それを成し遂げるのが自分でなくては気が済まなかった。しかも一番にそれを成し遂げなくては満足がならなかった。金と機会さえ与えられれば、自分が一番になる自信が彼にはあった。
事実、彼のレッドストーン・ロケットと陸軍ジェット推進研究所(JPL)の小型固体ロケットであるサージェントを組み合わせれば、すぐにでも秒速7.9㎞の壁を破り、世界初の人工衛星を打ち上げることができた。こういう算段だ。フォン・ブラウンのレッドストーンを第一段として用い、その上にサージェントを十一本束ねた第二段、その上に三本束ねた第三段、さらにその上に一本のみの第四段を置く。第一段から順に点火していくと、第四段とその上に搭載された重さ数キログラムの小さな人工衛星は秒速7.9㎞に達する。第一段から四段まで全て既存の技術だったから、資金とゴーサインさえ出ればすぐにでも実行できた。この計画をフォン・ブラウンが提案したのが一九五五年。スプートニクの二年前だった。
JPLに展⽰されているエクスプローラー1号と第2段から4段ロケットまでの模型(撮影:筆者)
一方、海軍と空軍もそれぞれ独自の人工衛星計画を提案していた。アメリカでは各軍の間に強いライバル意識がある。そして微妙な政治的バランスもある。技術的に優れていたのは明らかにフォン・ブラウンの陸軍チームだった。もしアメリカが世界一番乗りをしたければ、選ぶべきは陸軍だっただろう。しかし、選ばれたのは海軍だった。理由は政治的なものだったといわれている。レッドストーンはナチス・ドイツの技術をもとに作られたが、海軍のロケットはオール・アメリカ製だった。また、軍用ミサイルであるレッドストーンがソ連上空を飛び、ソ連を刺激することを政府は恐れた。
*海軍のロケットは研究用として開発されていた。もっとも、ロケットとミサイルは同じものなので、何の用途であろうと実質的違いはないのだが。
諦められないフォン・ブラウンは一九五六年九月、弾頭の再突入の研究という名目でロケットの実験を行った。ただし第四段は本物のロケットではなく、砂を詰めただけのダミーだった。国防省はフォン・ブラウンがこっそり人工衛星を打ち上げようとしているのではないかと疑った。陸軍が海軍の先を越しては政治的に都合が悪かった。そこで国防省は査察官を送り込み、本当に第四段がダミーかチェックまでした。
実験は完璧に成功した。この時もし第四段に本物のロケットを使っていたら、アメリカは世界初の人工衛星打ち上げの栄誉を勝ち取り、フォン・ブラウンは幼少の頃からの夢を叶えていたはずだった。
フォン・ブラウンは議会に直接訴えた。CIAからはソ連が巨大なロケットを開発しているという情報がもたらされていた。一方、海軍の計画は遅延に遅延を重ねていた。このままではソ連に先を越されてしまうと議員を脅した。