あっ!」と驚くことは大事。でも驚きすぎてもいけないのはなぜか?

栄養価の低いものをいくら食べたところで、空腹はなかなか満たされない。でも、量は少なくても良質のものを口にする時、人は食欲の満たされることを実感するはず。だから「知識欲」つまり「好奇心」についても同じように考えようではないか! そんなデカルトの不思議なたとえを、『デカルトの憂鬱』著者・津崎良典先生がわかりやすく解説してくれます。


03 デカルトは冷静に「驚く」

驚くことが有益なのは、それまで知らなかったことを私たちに学ばせ、記憶にとどめさせるからだ。 ―『情念論』第二部第七五項

人はどのような時に「あっ!」と驚くのか?

 この素描は何を描いていると思われますか。ヒトの頭部ですね。しかし、髪がない。ツルツルです。画家は、とりわけ男性諸氏にとっては気になるはずの髪の有無よりも、別のことに注目してもらいたいかのようです。そう、眼の開き方、口の開き具合、眉の上がり方、鼻の膨らみ具合などです。つまり「表情」です。

 これは、十七世紀フランスを代表する宮廷画家シャルル・ルブラン(一六一九年―九〇年)による『驚き』という題名の素描です。彼は、おそらく一六六八年のことですが、デカルト晩年の代表作『情念論』(一六四九年)に影響を受けて、感情(情念)に関する講演を行いました。  その内容は、人間の感情は身体のさまざまな部位にある特徴をなして現れる。とりわけ注目すべきは表情である。それでは、どの感情がどのような表情となって現れるのか、それを解説しよう、というものです。

 この講演はその後、彼自身が作成した、さまざまな感情に対応する表情の素描とともに教本として刊行されました。怒っている時や恐れを感じている時の表情です。そして多くの画家が、表情豊かな、つまり感情表現の豊かな人物像を描くためにこの教本をお手本にしたと言われています。

 さて、この素描を見るとよく分かりますが、人は驚くと、平常心の時に比べて、目と口が大きく開きます。眉も釣り上がります。それでは、人はいったいどのような時に、このような顔をして「あっ!」と驚くのでしょうか。

「驚き」をまったく感じない人

『情念論』第七〇項によると「驚き」は、私の「精神を襲う突然の不意打ち」です。ルブランの素描には、不意打ちをくらった人の様子がよく表されています。それでは、なぜ不意打ちが起きるのでしょうか。

 それは、私が目にしたり耳にしたりするものが真新しいからです。そして、そのような判断が下されるのは、一方で、それが私のすでに知っている他のものとまったく似ていないから。テレビで繰り返し放映される見飽きた番組、ラジオで垂れ流される聞き飽きた歌謡曲などに比べて、つまり、これまでの私の経験に照らして、ある映像や旋律が真新しいと判断される時、私は驚くのです。

 他方で、驚きの原因が私にとって予想外のものだからです。予想というのは、こうなるはずだという、将来に対する私の思いですから、それが外れれば「不意を打たれる」。つまり驚いてしまう。誕生日やクリスマスに期待外れの贈り物をもらったら、「あっ!」とか「えっ!」と驚いて、その後、悲しみや怒りといったマイナスの感情が湧いてくる。

 以上の二点から何が分かるでしょうか。そう、驚いている私は、実は過去の経験でも将来の予想でもなく、今この瞬間にいい意味でも悪い意味でも「真新しい」と判断されたものに、つまりデカルトが『情念論』第七五項のなかで「希少かつ異常」と表現するものに、とても強い関心を寄せている、ということです。

 この関心はあまりに強いので、私が何かに驚いている時、その印象は精神に深く刻みこまれます。つまり、記憶されます。長くて暗いトンネルを突き抜けたその先に、今まで見たことも考えたこともないような美しい雪景色が広がっていたら、人はその美しさに驚き、そしてそれを忘れることはないでしょう。  そうすると驚くことには、人が何かを新たに学んでいくうえで、とりわけその出発点においてきわめて有用な役割を与えられている、ということが分かってきます。「あっ!」とか「えっ!」と驚くと、次に必ず「それはいったいなんだろう?」という問いが生ずるからです。そして、この問いに答えていくことが、端的に言って「学び」なのです。『情念論』第五三項を見てみましょう。

「驚きは、すべての情念のなかで最初のものと思われる」

 人はまず驚く。そしてこの驚きから学びが始まる。第七五項では次のように述べられています。

「生まれつきこの情念にまったく傾かない人々は、あまりに無知であることが通例である」

 さらに第七七項では、次のようにも述べられています。

「生まれつき驚きをまったく感じないのは、ただ鈍い愚かな人々だけである」

 ここに引用した三つの文章に響いているデカルトのはっきりとした口調に注目してください。多くのことに関心を示して記憶にとどめる、そのような瑞々しい感性をこれからも持ち続けたい……そのような哲学者の正直な思いが伝わってくるようではありませんか。

「過度な驚き」は無知を改善しない

 しかし、慎重なデカルトのこと、実は「驚きすぎる」ことを戒めてもいます。

「人は、驚き足りないことよりも、むしろ驚きすぎること、そして、考察する値打ちがほとんどないか、あるいはまったくないものを知覚して驚愕することのほうが、はるかに多い」

 この引用文は『情念論』第七六項からのものですが、よく読んでみると「驚き」ではない「驚愕」なるものについて触れられています。これは、単なる不意打ちなどではなく、たとえば激しい雷がいきなり鳴って胆を潰したり冷やしたりしてしまう場合の驚きです。「過度な驚き」(第七三項)と言い換えても構いません。

 それでは、なぜ「驚きすぎる」ことは好ましくないとされるのでしょうか。「驚愕」に関する彼の言い分をもう少し聞いてみましょう。

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デカルトの憂鬱

津崎良典

悩みや心配、悲しみ、怒り、憎しみ……そんな「マイナスの感情を確実に乗り越えられる方法」はあるでしょうか? あの「我思う、ゆえに我在り」であまりにも有名な近代哲学の祖・デカルトが、私たちに降りかかるマイナスの状況にいかに対峙すべきか、「...もっと読む

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