真っ平らなハイウェイを、ワゴンは氷上をすべるソリのように流れていく。
前方に連なる山脈は、たくさんの虫や獣、うろんな人々の意識を内包しながら、ふしぎな引力をもってそびえている。まるで鳥黐だ。ぼくは、ワゴンがだんだんと吸い込まれていくみたいな気がしてこわくなる。
サイドミラーには新宿のビル群がおさまっていた。見ていると、なんだか都市のすべてがちいさなスノーグローブのなかの出来事に思えてくる。
あそこに、あんなところに、5万のアパートがある。ぼくの暮らしがある。そのことが、なんだかとてもしっくりくる。
自然はこわい。
オーナーの買い付けに同行するのは、いちばんいやな仕事だ。車酔いするし、筋肉痛になるし、緊張で下痢になったりもして、せっかく透明になろうとしている身体のいちいちを呼び起こされるから。
「おい、腹の具合はどうだ」
そう聞かれると、今朝バスタブに捨ててきたはずのお腹が、待ってましたといわんばかりに活動をしはじめる。ぼくは「平気です」と答えながら、さりげなくパンツのゴムをずりあげて、ギュルギュル音を立てるお腹をあたためた。
ぼくはお腹が弱い。特に未来のことを考えると、たとえ5分後であってもお腹が痛くなる。だって、たった今をこうして生きているだけでもつらいのに、5分後なんて、まして明日や明後日のことなんて、ぜったいに考えたくない。
だから、昨日の夜電話で買い付けのことを聞いたときから、ぼくはずっと下痢をしていた。一晩じゅう、もうなにも出ないというくらい苦しんだのに、まだ痛みがおさまらない。
「あの、どうして今日はぼくなんですか。うしおくんだって行きたがってたのに」
ぼくは恨み言っぽくそう言った。ガレージの前で「行ってらっしゃい」と手を振ったうしおくんの、ぬれぎぬで叱られた子どもみたいな目を思い出しながら。
「なんとなくだよ。特に理由はない」
オーナーはおちょくるみたいな声色でそう答えて、のんきに鼻歌をうたいはじめた。ユーミンの歌だった。スノーグローブの都市は、おおきなカーブに阻まれて、とうとう見えなくなってしまった。
透明になろうと決めたとき、唯一困ったのが部屋を埋め尽くしたおもちゃたちのことだった。狭いワンルームだっていうのに、リカちゃん人形やらまほうのステッキやら、ちいさな頃から集めてきたものたちが溢れかえり、あちこちで雪崩を起こしかけていたのだ。
いったいどうして、そんなに集めてしまったのかはわからない。愛に理屈はないとか言うけれど、すきだから、欲しいからというだけの理由で、銀河にたったひとつしかない自分の部屋が混沌と化したりするだろうか。
もちろん、ぜんぶ放り出して消えたってよかった。実際、自分が消え去ったあとの世界のことなんて、ぼくはほとんどどうでもいいのだ。親も、周りの人たちも、担っている仕事もすべて。
それでも、やっぱり好きなものたちのことは気にしないわけにはいかなかった。こんな自分なりに、好きだから揃えたもの、手に取った瞬間に、ああきれいだと思った気持ちのかけらくらいは、どういう形であれ、この世界に残り続けてほしかった。たとえ次に手にした人が、そんなことお構いなしに遊んだとしてもだ。
それでぼくは、適当に検索してたどり着いた骨董品屋に、おもちゃをぜんぶ、いっさいがっさい売り払ってしまおうと決めたのだ。
冬のはじまりのある日、相談のためにおそるおそる骨董品屋へ出向いていくと、オーナーはエラの張った四角い顔をテカテカさせて、事務所にぼくを招き入れた。だぼっとしたトレーナーと、くたっとしたジーパンという、休日の大学生みたいな格好で。
「買い取りのご相談でしたよね。わざわざご足労いただいてすみません。どうぞそちらへ」
雑多な事務所の雰囲気に圧倒されながら、用意されていた丸いパイプ椅子に腰掛けると、その途端に上半身がギュウンとうしろにのけぞった。床の一部が陥没しているせいで、椅子がひどく不安定になっていたのだ。おかげでぼくは椅子に腰掛けているあいだじゅう、プリマドンナみたいにふんばって、なんとか姿勢を保たなくてはいけなくなった。視界の隅では、木ノ本さんとみずなくんがふたりがかりで絵画の梱包をしている。
オーナーは、向かい合って同じようなパイプ椅子に腰掛けると、いまにもひっくり返りそうになっているぼくのことも知らないで、早速本題に入った。
「さて、今回は具体的にどのようなものを売っていただけるんでしょう?」
いかにも商売人って感じの声にちょっとひるみながら、ぼくは足元に置いたリュックサックから、おもちゃをひとつ取り出した。スムーズに話を進めるために持ってきたのだ。
「あの、こういうおもちゃです」
リュックから現れたのは、レディ・リンのオルゴールつき宝石箱だった。上品なピンク色をしていて、ふたの中央には赤い宝石と金色のレリーフがついている。
オーナーはにやにやしながら宝石箱を見て、ほお、と声を出したきり、顎に手を当てて押し黙った。それはぼくとってとても緊張を強いられる沈黙だった。木ノ本さんとみずなくんも作業を止めて、興味深そうにこちらを眺めている。
男のくせに、なんてことは子どものころから言われ慣れている。学生時代なんて、平穏にすごせた瞬間のほうがめずらしいくらいだし、おかげで父親との関係もギクシャクしている。
ぼくはまたか、とうんざりしながら、こころが傷つかないように、ぐっと奥歯を噛みしめた。
さあ、おかま野郎って言えよ。自分から言ってやったっていいんだぜ。
ところがオーナーの反応は、まったくぼくの予想に反していた。
「いやあ、とても満ち足りた顔をしている。これは愛されている、いや愛されきっているって顔だ」
そう言うと、黄色い歯をむき出しにして、まるで赤ちゃんにするみたいに、宝石箱に向かって微笑みかけた。ぼくはびっくりして、どういう反応をしたらいいかわからなかった。それどころか、ちょっと傷ついてさえいたのだ。
「ちなみにこれ、中ってどうなってるんです?」
「こ、こうです」
慌てて宝石箱の蓋をあけると、重厚な赤いベロアのうえに、ギンガムチェックのリボンのついたちいさなコンパクトが置かれていた。こんなときだって気分が落ち着いてしまうくらいきれいな、ぼくのとっておきの宝物だ。
「ほう、コンパクトですか」
「あの、なかに鍵が入っているんです。ぜひ見てみてください」
オーナーがごつごつした手でそっとコンパクトの蓋を開くと、コンパクトのなかから、ルビーやダイヤを模したガラス玉のたくさん嵌め込まれた、黄金の鍵が現れた。
「おお、とてもきれいだ。いつごろのものですか」
「80年代の終わりです」
「すみません、きっと有名なものですよね。女の子向けのおもちゃって、なかなか知識がないものですから。いやあ、うつくしいですよ」
自分の好きなもののことを、そんなふうに言ってもらえたのははじめてだった。まして男の人から。 しかしぼくはよろこぶどころか、まったく経験したことのない会話やおだやかな雰囲気に面食らっていた。話しを急いでしまったのも、そのせいだったと思う。
「あの、こういうおもちゃが部屋じゅうにあって、ぜんぶ買い取ってもらいたいんです。もちろんこの宝石箱も。値段が低くても構いません。商品名のわからないものはリストにします。とにかく部屋を空っぽにしたくて」
急き立てるように言うと、オーナーは怪訝そうに首をかたむけた。事務所の空気がすこしピリッとする。まずい、とぼくは思った。
「それって、たとえば引越しかなにかですか? もしくは、なにかのっぴきならない事情があって、コレクションをやめなくてはいけないとか?」
まさか、これから透明になるんです、なんて人様に言えるわけがなかった。ぼくは完全に墓穴を掘ってしまっていた。
膝に置いた宝石箱からは、ちぎれそうにか細いオルゴールの音色が、すこし遅れて流れはじめていた。オーナーは黙りこくっているぼくの返事を、目をまんまるにして待っていてくれたけれど、しばらくするとあきれたようにため息をついた。
「たまにいるんだ。お客さんみたいな理由でうちに来る人がね。すみませんが、今回は買取りを遠慮させていただきますよ。おもちゃがかわいそうだ」
たぶんオーナーは、ぼくを自殺志願者かなにかとかんちがいしたのだろう。けれどぼくは、訂正する気にはなれなかった。消えることと、しぬことのちがいなんて、他人からしたらきっとないに等しいのだから。
オーナーは手に持っていた鍵を、とても丁寧にコンパクトにおさめると、同じように宝石箱のなかに戻していった。ぼくはそれを白昼夢のようにながめながら、ぼくもかつてこういう手つきで、愛情を持って、この鍵と宝石箱を大切にしてきたことを思い返していた。手に入れた日の記憶や値段、いつもチェストの一番良いところに置いてあって、目に入るたびにうれしかったことまでもが、つぎつぎと蘇ってくる。蘇ってくるけれど、やっぱりぼくは透明になりたい。ならないわけにはいかない。それはもう、どうしようもないことなんだ。
するとオーナーは唐突に言った。
「ちなみにいま、なにかお仕事ってされてます?」
もしかしたら、どこか然るべき施設に通報しようとしているのかもしれない。そうなったら最悪だ。家族に連絡がいってしまう。
けれどぼくは、正直に答えてみることにした。それがいちばんいいと思ったし、うそをつく気力もなかったのだ。
「じきにやめようと思っています」
それを聞くと、オーナーはわざとらしいほどシリアスな口調で、とつとつと語りはじめた。
「実はうち、あまり女の子もののおもちゃって扱わないんです。けど、このところコレクターが増えているでしょう。当然問い合わせもあるわけです。実際、いつの間にか倉庫のなかにも集まってきているんですよ。しかし僕を含め、スタッフのだれにも知識がない。とても困っていたところだったんです」
オーナーはそこまで言い終えると、我慢しきれないといったふうに、デスクで静観していた木ノ本さんとみずなくんに向かってアイコンタクトを送った。ふたりはそれに笑顔を返している。
混乱しているぼくに、オーナーは満面の笑みで言った。
「うちで働いてみませんか。きみの知識が必要なんだ」
ぼくはあまりにも驚いて、たいせつな宝石箱を床に落としそうになった。
しかしもっとも驚いたのは、とっさに自分の口から出た答えだったかもしれない。
「はい。ぜひ働かせてください」
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