午後七時を回り、ダブリン・トリニティ大学図書館は暗闇と静寂に包まれていた。
二人の少年はランタンを掲げ、迷宮のように立ち並ぶ書架の間を歩いた。そして突き当たり、特別閲覧室へと向かう。大時計の針が彼らの歩調に合わせて鳴った。
特別閲覧室の明かりは落ちていた。ブラム・ストーカーが偽造鍵を差し込み、捻ると、鉄柵はキイキイと軋むような音を立てて開いた。二人は盗人のように忍び込んだ。
「てっきり、図書館員に知り合いがいるのかと」
ハーンが咎めるように言った。
「案内してやると言っただけだ」
ブラムは臆面もなく返した。
「見つかったら、ただでは済まないでしょう?」
「ハ! 今更何を言ってる。〝奴ら〟を狩り殺そうとしてる奴が、この程度のことで怖気付くのか? 〝奴ら〟に対抗するなら、いくつもの境界を踏み越えなきゃならんぞ」
ブラム・ストーカーは肩をすくめ、大股で特別閲覧室内を闊歩した。ハーンは不本意ながら、この胡乱な大学生に対して不信感と頼もしさの両方を感じ始めていた。
ブラム・ストーカーは偽造鍵束をジャラジャラと鳴らし、さらに二つの鍵を開いた。古代エジプトの謎めいたパピルス、狂えるアラブ詩人の書物、あるいは南北朝時代日本の絵巻物など、ハーンが目にしたこともない歴史的収蔵物や稀覯書(きこうしょ)の数々が所狭しと並んでいた。
その間を、まるで己の庭のように、ブラムは先へ先へと進んでいった。
突き当たり、最も厳重に守られていた書架のひとつに到達すると、挿された場所を探すまでもなく、すぐに一冊の書物を取り出した。その手つきから、ブラムがこの書物に対して深い敬意を捧げていることが見て取れた。
「……これがケルズの書だ。作られたのは八世紀頃……」
ローマ・カトリックの伝道師らは、自然崇拝を続けてきた荒々しきアイルランドの人々にキリスト教を伝導するため、その伝統的文化とローマ・カトリックの教義を融和させていった。その寛容なる時代に作成された宗教美術の粋、極彩色の三大写本のひとつが、このケルズの書である。
ブラムはそれを司書官机の上に置き、ハーンを隣の椅子に座らせた。この時ばかりは、ブラムも額に汗を滲ませていた。
「ブラム、さっきも言ったけど、福音書に何の用が……」
「まあ黙ってろ。俺も信心深い方じゃないし、女王陛下と神の威光など信じてもいない」ブラム・ストーカーは倫敦(ロンドン)の方角に中指を突き立てながら言った。「だが少なくとも、先人たちの知恵と努力と血には、敬意を表すべきだと考えていてな。……見ろ、ハーン」
ブラムはケルズの書を開いた。
「……!」
ハーンはその美しさと荘厳さに圧倒され、思わず息を飲んだ。
七百頁近い、分厚い書物。その全てのページに、精密で色彩豊かな手書き文字とケルト様式装飾がちりばめられている。全てのページが美麗なる宝石細工か、あるいはスイスの懐中時計職人が生み出す、最も精巧なる機械仕掛けのムーブメントを想起させた。
「何だ、この文様……」
それは家や学校では絶対に見ることがない、たおやかな曲線美と生命力に溢れた宗教装飾であった。彼が知るキリスト教的装飾といえば、父のように整然として、冷徹で、直線的で、威厳に溢れ、無機質で、完璧な均整が取れた、ゴシック教会建築のようなものであった。ところがケルズの書には、異質で妖しい闇が、そして母のように悠然と優しい曲線が、ごく自然に紛れ込んでいるのだ。古い街道のケルト十字架に這う、あの蔦植物めいて。
「ケルト装飾……? ドルイドの文化が混じっている……?」
「その通りだ。当時は境目が曖昧だった。今では英国国教会に目をつけられて、漂白されてしまったがな。だからケルズの書は門外不出。一般には貸出どころか、閲覧も禁じられている。歴史学を学ぶ教授か学生でなければ、この閲覧室にすら入れない」
ブラムは得意顔で頁をめくり続けた。
「例外といえば、この俺だけさ。ハハッ!」
「……ん?」
ハーンは眉を顰めた。何らかの違和感に気づいた。今しがた開かれた荘厳なカーペット・ページに、何か蜃気楼のようなものが一瞬、浮かび上がったような気がした。だがその違和感をブラムに伝える術がなかった。
「読めるか、ハーン。メルクリウスの光を追え。幽かな光を……!」
ブラムは声を抑えていたが、その高揚ぶりは明らかだった。
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