エピローグ
昼下がりの三毛猫茶房。美鈴は御園が作成した資料をカウンターの上に広げた。御園が計算した森下書房の「企業価値」は2億2000万円。TAIYO出版が提示してきた買収額より少し上回っていたが、「買収額は妥当な数字」というのが、御園の意見だった。
「この数字は、ファイナンス的な観点からは買収に応じても損はしない、ということね」
「理論上はそうなります」石島は表情を変えることなく答えた。
「石島さん、どうしたらいいと思う?」
「……」
石島は何も答えずに、グラスを磨いていた。
「わかってるよ。自分で決めなさいってことでしょ」
石島はうなずいてから、静かに口を開いた。
「ファイナンスは経営判断のモノサシになってくれます。これまで見えていなかったものを数字で示してくれる。ただ、その数字をもとに最後に決断をするのは経営者自身です」
「うん、たしかにファイナンスは、会社を強くして継続させる方法を示してくれた。でも、1年間社長をやってみてわかったことは、人生も経営も数字だけでは測れないってこと。営業や編集のみんなと知恵を出し合って、本をつくって売るという経験は、私の人生にとって大切なものだった。パパが生んで育ててきた会社を守り抜きたい、という私の想いも数字で片づけることはできない」
「大切なのはあくまでファイナンスを武器に経営をすることです。ファイナンスそのものが目的になってはいけません」
「お父さんが私のためにつくってくれた『星の王子さま』に、こんな一節があるの」
〈大切なことは、目に見えない〉
「私たちが見ているのは、目に見えている数字に過ぎず、本当に大切なものは、目に見えない何かじゃないかって。最終的にはハートで見て判断しなくてはいけないと思う」
「どうやら結論は出ているようですね」
「うん、買収の話は断るよ。森下書房はもっといい本をつくって、もっといい会社になれるはず!」
「美鈴社長のご判断は、素晴らしいと思います」
そういって、石島は眼鏡を人差し指でクイッと持ち上げた。
「ありがとう、石島さん。ついでにもうひとつ夏休みの宿題を手伝ってもらいたいんだけど」
「まだ、あるんですか?」
「私、進路のことで悩んでいて」
「そういえば、社長はまだ高校生でしたね。忘れていました」
「これでも現役JKなんだから!」
美鈴は口をとがらせた。
「失礼しました」
「森下書房の経営をするのも楽しいんだけど、大学にも行って勉強したい気持ちもあるの。経営やファイナンスの理論をもっと専門的に勉強してみたいって。それを将来、森下書房の経営に活かすことができれば、ムダにはならないと思う。あれもこれもって欲張りすぎかな」
「若いんですから、どんどん欲張っていいんですよ」
「で、ファイナンス的には、どうするのが正解なのか、教えてほしいの」
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