客席のほうから、予期しなかった悲鳴が上がった。
観客に紛れ込んでいる私服警備員の報告を待たずに、桐生七海は紫色のイブニングドレスの裾をたくし上げるように持ち、ステージ上手の袖から、一瞬だけ出て客席を見渡す。
間髪を容れずに、耳に仕込まれた無線機が鳴る。
「クリア」
客席の私服警備員が七海に向かって軽く手を上げている。問題ないとの合図である。 客席の後方中央付近で、顔を歪めて天を仰いでいる若い男の姿を捉える。その男は見たことがなかったが、その隣にいる一際目立つ白いワンピースの女性に、七海は見覚えがあった。
「相川響妃……」
袖に戻りながら、その女性の名前をつぶやく。
今、テレビ業界において飛ぶ鳥を落とす勢いの若手のフリーアナウンサーだった。フリーアナウンサーながらも、自分の名前を冠したコーナーを様々な番組内に持ち、特にスクープを連発している「相川アイズ」の視聴率は、ありえない高水準を保っている。
七海が知るある起業家は、彼女のことをこう表現した。
味方になればいつ敵になるか怖い、敵になればマフィアよりも怖い、ほどよい距離感を保つのが最善の策だと。
彼女がどうしてここにいるのだろうか。
考える間もなく、現場の部下から無線に次々と報告が上がってくる。
「エントランス、異常なし」
「公会堂前公園、異常なし。喫煙所の身元オールクリア」
「裏口、楽屋、すべて異常なし」
「一階男性トイレ、女性トイレ、通路、すべて異常なし」
「二階トイレ、封鎖済み、異常なし」
「二階席、異常なし。映写室、封鎖済み、異常なし」
「一階席、リスク、排除中」
袖幕の合間から客席を見ると、先ほど悲鳴を上げていた男と相川響妃が、警備主任の香田によって、外に連れ出されようとしているところだった。一一八キロの香田の、まるで仁王像のような巨体を目の前にすれば、人は抵抗を諦める。
その周囲はざわめき、中には携帯電話で写真や動画を撮っている観客もいた。普通なら、すぐにこれらの写真や動画は、スマートフォンからツイッターやフェイスブック、インスタグラムなどのSNSを通じて、一斉に世界に配信されるのだが、この空間ではそれが不可能だった。
なぜなら、七海とスタッフが、妨害電波でこの劇場を完全に携帯電話「圏外」にしていたからだ。警備員が使う無線の電波や医療緊急用のPHS回線以外は、外部と連絡が取れないようになっていた。これも、万が一客席に不審者が忍び込んだ場合の防御策の一つである。
なかなか警備員の指示に従わなかった相川響妃だったが、連れの男性に手を引かれて、警備員に囲まれながら、客席の外に出た。それを見届けてから、七海はネックレスに仕込んだ小型無線機の発信ボタンを押して言う。
「舞台袖、異常なし。警備本部より、全スタッフへ。オールクリア。直ちに開演せよ」
「了解」
それとほぼ同時に、アナウンスが会場に鳴り響く。
「大変長らくお待たせしました、まもなく開演します」
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