日本語という豊かな土壌に根を下ろす
ロバート キャンベル(以下、キャンベル) 「一人っ子である」ことについて何度か言ってくださったんですけれども、「詩人を目指す、詩人になる、詩人であり続ける」ことはかなり内向的な取り組みで、自らを俯瞰することがないと、たぶんできないと思います。
同時に、それは言葉を紡いでは送り出すという循環のなかにいることですね。多くの詩人がそうした自らの営みを語るときに、「自己表現」という言い方をすると思います。谷川さんは、そのあたりはいかがでしょうか。
谷川俊太郎(以下、谷川) 僕は母親に百パーセント愛されたという自覚が本当にあるんですね。だから非常に安定した幼年時代を送っていて、それがその後、非常に生きやすい自分を作ってくれたと思っているんですよ。
戦後の若い人たちは、みんないろいろな傷を持っていたり、左翼系な人たちも多くて、日本を変えていかなきゃいけないみたいなことを考えている人たちがいっぱいいたんですけど、僕はわりと自分に自足していたと言うのかな。
だから、自分の恨みつらみみたいなものを書くということは一切なかったんですね。それが自分の内面になかったから。でも周囲の友だちを見ていると、自分の内面の相当深いところの恨みつらみを、どうにか言葉にしようとしている詩人たちが多かった。
その頃は比較できなかったんだけど、いまになってみると自分はやはりそんなに自己表現ということで詩を書いていなかった。むしろ他者との関わり方の、何か一つの道具みたいな形で詩を考えていたのかなと思います。
キャンベル そうすると、いま読んでくださった詩が、本当にそのまま詩人としての谷川さんの姿をあらわしているのですね。
谷川 そうかもしれません。
キャンベル 人との関わりで内面的に大きな違和感や挫折というものもなく育ち、そして詩人となって、60年代から70年代には少しスランプと言いましょうか、書きづらい時代もあったり、それから私生活においては結婚と離婚を繰り返し、そのなかでさまざまな経験をなさったと思います。
そうした生活のなかから詩を作っていく肥やし、「肥やし」という言葉はあまり軽々しく言いたくないんですけれども、そういうものはあったということでしょうか。
谷川 離婚した妻たちに申し訳ないですね。
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