幼年期の終わり

「私」はどこからきたのか?1969年7月20日。人類がはじめて月面を歩いてから50年。宇宙の謎はどこまで解き明かされたのでしょうか。本書は、NASAの中核研究機関・JPLジェット推進研究所で火星探査ロボット開発をリードしている著者による、宇宙探査の最前線。「悪魔」に魂を売った天才技術者。アポロ計画を陰から支えた無名の女性プログラマー。太陽系探査の驚くべき発見。そして、永遠の問い「我々はどこからきたのか」への答え──。宇宙開発最前線で活躍する著者だからこそ書けたイメジネーションあふれる渾身の書き下ろし!
人気コミック『宇宙兄弟』の公式HPで連載をもち、監修協力を務め、NASAジェット推進研究所で技術開発に従事する研究者 小野雅裕がひも解く、宇宙への旅。 小野雅裕の書籍『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』を特別公開します。


©NASA/JPL-Caltech

プロローグ

二〇〇八年四月三日。地上約400㎞を周回する国際宇宙ステーションに、一艘の船が接近しつつあった。

船の名は「ジュール・ベルヌ」。欧州補給機(ATV)の初号機で、船名はもちろん「SFの父」と呼ばれる十九世紀の作家ジュール・ベルヌから取られたものだ。ATVとは日本の「こうのとり」(HTV)のヨーロッパ版で、宇宙ステーションに食料、水、実験装置などを運ぶための無人の補給船である。

「テレメトリー、ノミナル。コンタクト待機。」

管制官が淡々と呪文のような技術用語を唱える中、ジュール・ベルヌはゆっくりとドッキングポートへ接近していった。ドッキングは全自動で、宇宙飛行士の仕事は異常時に緊急停止スイッチを押すことのみである。

「ステップ16……ステップ17、ドッキング。」

宇宙ステーションに軽い振動が伝わった。ドッキング成功。拍手に湧く地上の管制室。一方、宇宙飛行士たちの口にはよだれが分泌された。久しぶりの新鮮な食品にありつけるからだ。宇宙食は、アポロ時代のチューブから絞り出すねり歯磨きのようなものと比べればだいぶマシになったが(たとえば日本は「宇宙ラーメン」を開発した)、生野菜や果物は船が着いた時しか食べられない。

宇宙飛行士はハッチを開け、早くリンゴにかじりつきたい気持ちを抑えつつ、ジュール・ベルヌから貨物を運び出す作業に取り掛かった。食料、衣類や実験器具に混じって、船にはある「記念品」が積まれていた。

それはビニール袋にパックされた古い本だった。二編の小説が収録された分厚い合本で、四色刷りのカラフルな表紙には金色の地球が鎖でぶら下がっており、その上に描かれた赤いプレートに古めかしい書体で二編のタイトルがフランス語で書かれていた。

De la Terre à la Lune
Autour de la Lune

邦題は『地球から月へ』『月世界へ行く』。一八六五年および一八七〇年に出版された、「SFの父」ジュール・ベルヌの作品である。

その印刷されて百年以上経つインクのかすれた紙の束には、あの「何か」が潜んでいた。

幼年期の終わり

Imagination is more important than knowledge.
(イマジネーションは知識より大事だ。)
         アルバート・アインシュタイン

一八四〇年。ある十二歳の少年が、フランス西部サン=ナゼールの海岸に立ち、大西洋を見ていた。どこまで続くかわからぬ紺青。陽光を照り返し星のように瞬くさざ波。少年は海を見るのが初めてだった。ナントという川の上流の港町に育ったから、毎日船に染み込んだ海の匂いを嗅ぎ、船乗りの冒険談を聞いていたが、自分の目で見たことはなかった。海に憧れ、海を夢見た。憧れた海が、今目の前に広がっている。つま先を波が濡らした。思わず海水を手に掬って飲んだ。そこは少年のイマジネーションの波打ち際でもあった。向こう側に続くのは果てしない未知の海。浮かぶのは見たことのない大陸や島々。そこに何かいるのか、何がいるのか。少年の心は、いつの間にか幽霊のように七つの海を飛び越え、彼方の地を旅しただろう。彼の心の中では何かが戦いている。いている。そして囁いている。何かが……。

その少年は名を、ジュール・ベルヌといった。

ベルヌ少年が「SFの父」になるまでには紆余曲折があった。父が弁護士だったため二十歳でパリの法律学校に行かされたが、彼の本当の興味は文学にあった。卒業後も親のスネをかじりながらパリに居座り、文学サロンに出入りしながら劇を書いたが、最初の十年は鳴かず飛ばずだった。

試行錯誤の末、ベルヌは少年時代のイマジネーションに立ち戻った。育った町で嗅いだ海の匂い。ロワーヌ川を行き交う船の白帆。そして想像した海の向こうの見知らぬ世界。そこに何かいるのだろうか? 何がいるのだろうか?

ベルヌの少年時代のイマジネーションは、『気球に乗って五週間』という小説として結晶化した。気球でアフリカを冒険する物語だ。冒険小説自体は既に山のようにあったが、この小説の主人公は魔法の力で空を飛びドラゴンを倒すのではなく、科学の力で困難に立ち向かった。入念に調べて書かれた科学技術の描写は空想にリアリティーを与えた。ちょうど産業革命が行き渡った時代のフランスの読者に、この新しいジャンルの小説、空想科学小説(SF)は熱狂的に受け入れられた。

それ以降、ベルヌは冒険SFの傑作を量産した。『海底二万マイル』『八十日間世界一周』といった作品名にきっと耳馴染みがあるだろう。たとえ本を読まない人でも、東京ディズニーシーに行ったことがあるならば『地底旅行』(センター・オブ・ジ・アース)や『神秘の島』(ミステリアスアイランド)といったベルヌ作品を体験したことがあるに違いない。


ジュール・ベルヌ

どうしてベルヌが月旅行の話を書こうと思ったのか? そのインスピレーションはどこから来たのか? 僕が調べた限り記録はなかった。カミーユ・フラマリオンという天文学者による一般向けの著作から天文学の知識を得たことはベルヌ自身が語っているが、それが着想の原点であったかどうかはわからない。夕日を見ても太陽に行きたいと普通は思わないように、月を見ても、知識があっても、そこへ「行く」という発想は簡単に出てくるものではない。アポロの百年も前に、一体何が、月への旅という時代のはるか先を行くアイデアを彼の心に囁いたのだろうか?

一八六五年に出版された『地球から月へ』は大ベストセラーとなり、各国語に翻訳され、何万部と刷られて世界中の本屋に並んだ。

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宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─

小野雅裕

銀河系には約1000億個もの惑星が存在すると言われています。そのうち人類が歩いた惑星は地球のただひとつ。無人探査機が近くを通り過ぎただけのものを含めても、8個しかありません。人類の宇宙への旅は、まだ始まったばかりなのです…。 NASA...もっと読む

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seri258 #宇宙に命はあるのか cakesでの連鎖をはじめました! 2年以上前 replyretweetfavorite