02 デカルトはときどき「誤る」_1
私たちの意志は、知性がものの善悪を表示するのに応じてのみ、それに従ったり、避けたりするのだから、良く行動するためには良く判断すれば十分である。 ―『方法序説』第三部
「判断ミス」はなぜ起こるのか?
デカルトの方法の第一規則は、早とちりと思い込みをできるだけ回避せよ、というものでした。つまり、判断ミスを犯すな、です。しかし、私たちの実感からすれば、なかなかハードルが高い。というのも、あの時もっときちんと考えればよかった、などと後悔しない日は、けっして少なくないからです。いずれ本書の後半で少し詳しく論じることになりますが、デカルトによれば「後悔」は感情のなかで「最も辛い」ものです。だからこそ、後悔を招きかねない判断ミスの原因を突き止め、それを防ぐための対策を予め立てられれば、私たちの日常生活はもっと心穏やかなものになるはず。ここでは前章の解説を引き継ぎつつ、そのためのヒントをデカルトとともに考えていきたいと思います。
「コーヒー豆」を正しく判断するプロセス
判断というのは、少し大げさな言い方をすれば、人間の精神活動の代表的な成果の一つです。しかし、成果とはどういうことでしょうか。その点を確認するために、デカルトによれば私たちの精神には生まれつきいくつかの能力が備わっていて、そのなかでも基本的なものが「知性」と「意志」と呼ばれることを、まずは押さえておきたいと思います。 「知性」とは文字通り、ある事物を知的に捉えようとする精神の純粋な能力です。「純粋な」というところがポイントです。なぜなら、身体のさまざまな器官(眼とか鼻とか耳、さらには脳など)の助けを借りる「感覚」や「想像」とは切り離して考えたいというデカルトの狙いを表しているからです。
なるほど私たちが実際に何かを学ぶには、感覚や想像によってもたらされる情報が重要というか不可欠です。たとえば、このコーヒー豆はどのような匂いがするのだろうと嗅いでみたり、この豆が採れた木はどのような形をしているのだろうとイメージしたりして、いろいろと情報収集するわけです。
しかし、とりわけ感覚を通じて教えられる情報は取扱要注意です。なぜなら、同じコーヒー豆でもある人は臭いと感じ、別の人は芳ばしいと感じて、一定の評価を下すのが難しいからです。だからこそ私たちは、これらの言わば身体的な情報も参照しつつ、最終的に精神の純粋な働きによってコーヒー豆について「知的なやり方で」理解していきます。 「意志」のほうはどうでしょうか。こちらは分かりやすいかもしれません。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。