一故人

​星野仙一 —人々の心をつかんだ情報操作術

球界の「燃える男」として闘志あふれるピッチングでファンに愛され、現役を引退した後は中日、阪神、楽天で監督を務めた星野仙一。ファイティングスピリッツで知られた彼は、他方、細やかで戦略的な人でもありました。その生涯を「一故人」はたどります。

「じじいキラー」と呼ばれて

1968年11月のプロ野球の第4回ドラフト会議に先立ち、明治大学野球部のエースだった星野仙一(2018年1月4日没、70歳)は、巨人のスカウトから「田淵を指名できなかったら君を指名する」とひそかに約束されていた。田淵とは、法政大学の田淵幸一のことで、東京六大学リーグで通算22本塁打の新記録(当時)を達成したスラッガーだった。初期のドラフトでは、まず予備抽選で選手を指名する順番を決めており、巨人はもし先に別のチームが田淵を指名すれば、代わりに星野を指名すると約束したのだ。

果たしてドラフト会議当日、田淵は、予備抽選で巨人より順番が先になった阪神タイガースに思いがけず指名される。これに星野は内心喜んだのもつかの間、当の巨人は、横浜・武相高校の島野修を指名した。このとき「『星』と『島』を間違えたんじゃないか」と彼がぼやいたというのは語り草だ。結局、星野はこのあと指名された中日ドラゴンズに入団する。

星野と田淵は、東京六大学リーグでしのぎを削りながらも、やはり法政にいた山本浩二(68年のドラフトで広島東洋カープが指名)とともに大学時代からライバルであるとともに親友であった。この3人の性格の違いを表すのに、新聞記者たちはかつて次のような笑い話を好んで語っていたという(玉木正之『プロ野球大事典』)。

それは、3人が巨人の元監督・川上哲治にゴルフに誘われたときのこと。山本が約束より10分前にやって来たのに対し、時間どおりに現れた田淵が「さすがに早く来たな」と声をかけた。だが、山本は「もっと早いやつがいるよ」と指差すと、その先では、川上邸に30分以上も早く来た星野が庭掃除をしていた—。

あくまで笑い話で、真偽のほどはさだかではないが、こと星野に関してはさもありなんと思わせる。事実、彼は、巨人で9年連続日本一(V9)を達成した名監督である川上哲治を師と仰いでいたからだ。きっかけは現役を引退した翌年の1983年にNHKの解説者となったことだ。星野は解説者の先輩である川上や藤田元司ら巨人OBとゴルフなどをするうちに親交を深める。その後1986年のシーズンオフに古巣・中日の監督に就くと、背番号に川上が監督時代につけていた「77」を選んだことからも、彼の尊敬の念がうかがえよう。

星野は野球界にとどまらず、トヨタ自動車の元会長の奥田碩、日本郵政の初代社長の西川善文、元農水大臣の加藤六月など政財界の大物を含め、幅広い交友関係でも知られる。ここから「オヤジ・キラー」「じじいキラー」と陰口も叩かれた。本人としても、年輩者の懐に飛び込むことが得意なのは認めるところであった。これについて星野は、《僕が生まれる前に父が他界したことと関係していると思います。親父がいなかったから、年輩者に親父を求める部分があったのでしょう。いい意味の甘えを発揮していたのかもしれませんね》(『日経ビジネス』2002年3月11日号)と説明するのとあわせ、それ以上に、大学時代に監督の島岡吉郎に鍛えられたことが大きいとも語っている。これは、自身が監督となってからの彼の指導術にもつながることだ。ここで生い立ちとともに振り返ってみたい。

鬼監督に時には反発

星野仙一は1947年1月22日、岡山県倉敷市に生まれた。三菱重工業の工場長をしていた父親は、先述のとおり星野が生まれる数ヵ月前に亡くなり、二人の姉とともに女手一つで育てられた。

少年時代、息子が野球を始めると、母は家計をやりくりして新品のグローブを買ってやった。中学に入ると、そのグローブを持って、当時、母が社員寮の寮母となっていた三菱重工のグラウンドに通っては、社会人野球の練習に混じって、たまに飛んでくるボールを投げ返すなど相手をしてもらっていたという(『週刊現代』2003年6月21日号)。

長姉によれば、《子供の頃から、親分肌というのか、やんちゃ仙坊って言われていて、揉め事があると星野を呼べって言われて、出かけていっては問題を解決していました》というほど、昔から他人の面倒見がよかったらしい(『AERA』2002年4月15日号)。小学生のときには、体の不自由な同級生を背負って通学したこともあった。

中学時代は、当時の強豪校・倉敷工業高校への進学を志望していたが、倉敷商業高校の野球部長から「おまえの力で甲子園へ連れて行ってくれ」と口説かれ、進路を変更する。人から頼まれるといやと言えない性格も昔からだったようだ。

倉敷商業では結局、甲子園には行けなかったが、同校の監督も部長も明治大学出身という縁で、卒業後は上京して明大に入る。そこで出会ったのが、鬼と恐れられた「御大」こと島岡吉郎監督だった。その指導は厳しさをきわめ、毎日朝から晩まで猛練習でしごかれた。4年の春のリーグ戦で早稲田大学に4回でKOされた日には、雨の中、グラウンドで正座をさせられることもあった。

キャプテンになると島岡の付き人兼運転手も務め、大先輩や各界各層の年長者の相手をすることも増えた。そのなかで、監督や来客の気持ちを常に読みながら、あれこれと気配りをする姿勢が自然と身についていく。

他方で、監督に向かって意見具申することにも躊躇はなかった。3年春のオープン戦、亜細亜大学との3連戦で、星野は初戦を完封して勝ったものの、翌日の第2戦は、同点の場面でリリーフに立つと、暴投で1点を失い負けてしまった。試合後、島岡から怒鳴られたが、彼は持っていたグローブを監督の足元目がけて叩きつけると、《そりゃ、そうだろう。完封した翌日に1点取られたって、そう怒ることないじゃないか。しかもオープン戦なんだぜ》と反発する(横山征次編『魅力のリーダー星野仙一の実戦勝利術 星野の時代』)。これに対し島岡はいまにも飛びかかっていきそうな剣幕だったが、負けじとにらみ返す星野に、結局手出しはしなかった。

のちに「じじいキラー」と呼ばれる下地は、島岡監督に付き従い、時に反発しながらも鍛えられたところがやはり大きい。星野は次のように語っている。

《年輩の、それなりのポジションにある人たちというものは人をよく“観ている”もので、だからわたしのように少し田舎くさいところがあっても機転が利いて、あまりものおじするところのない若輩を面白がって受け入れてくれたのではないかと思う。(中略)20歳の頃から身についていることだから、今でもこうした細かい気配りや心配りがなにかの拍子にチラリと出ることがあるのがわたしだ》(星野仙一『改訂版 星野流』

そうした気配りは、年輩者だけでなく、自分と関係するあらゆる人に向けられた。選手の妻や両親に誕生日プレゼントを贈ったり、あるいはテレビ出演時のギャラを、球団のバッティング投手や用具係、スコアラーなどの裏方にそっくり渡したという話も伝わる。こうした行為は、川上哲治が監督時代、シーズンに入ると選手の留守宅に手紙を書き、一人ひとりの様子を家族に伝えていたことに倣ったものらしい(『AERA』2002年4月15日号)。

巨人戦に燃える男

話を大学時代に戻すと、星野の在学中、明大は東京六大学リーグで優勝はできなかった。それに対し、田淵幸一・山本浩二らを擁する法政大学は、それまで圧倒的だった早稲田・慶應の2強を揺るがし、彼らの在学中に3回優勝している。そんな法政を倒すべく、星野は闘志を燃やした。

中日ドラゴンズに入団してからは、冒頭にあげたドラフトでの因縁もあり、打倒・巨人へと変わった。このときの巨人監督こそ、引退後に彼が師と仰いだ川上哲治である。当時、人気・実力ともに絶頂であった王貞治・長嶋茂雄のONコンビを擁した川上巨人は、1965年から9年連続で日本シリーズを制覇していた。だが、1974年に巨人のV10を阻み、リーグ優勝を果たしたのは中日であり、その立役者となったのが星野だった。同シーズン、星野は15勝9敗10セーブの好成績を残し、初代セーブ王になるとともに沢村賞にも輝いている。

ただし、このほかに目立ったタイトル獲得はなく、現役通算146勝121敗34セーブと、けっして図抜けた成績を残したわけではない。しかし、巨人戦ではことさらに闘志をむき出しにし、ファンに強い印象を与えた。現役時代、巨人戦には126試合登板し、35勝31敗8セーブと、当時の両チームの力関係を考えれば驚くべき記録を残している。最大のライバルであるONとの一騎打ちでは、長嶋に対しては打率2割3分4厘に抑え強かったが、王にはよく打たれ、3割1分8厘を許した。王からの被本塁打24本は、同じ岡山出身で大洋ホエールズ(現・横浜DeNA)の平松政次に次いで2位の数字だ。これは裏返せば、逃げなかったということでもある(『魅力のリーダー星野仙一の実戦勝利術 星野の時代』)。

当時のテレビのプロ野球中継は、地方では巨人戦が大半であった。それも試合自体は夜6時15分に始まるが、中継は7時に始まる。星野は自分の活躍を、郷里の家族や友人、恩師に見てもらおうという意識が強く、7時になるともう一度自分にスイッチが入ったという(『ONの“メッセージ”~NHK『サンデースポーツ』司会:星野仙一「長嶋茂雄×王貞治 対談」完全版~』)。

家族や知人だけでなく、観客に対してもどう見られるかを彼は人一倍気にしていた。あるプロ野球OBが語ったところによれば、現役時代、こんな“自己演出”もしている。

《ホシは限界だと思うと、ベンチをチラチラ見よるんです。それで監督は察して、ピッチャー交代を告げる。でもピッチングコーチがマウンドに行くと、ホシはマウンドにグラブを叩きつけて悔しがる。正確には『悔しいフリ』をするんです。それを見た観客は、『ああ、星野はもっと投げたいのに代えられて、可哀想だな』と思うわけです》(『週刊現代』2003年6月14日号)

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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takigawa401 星野仙一 ――人々の心をつかんだ情報操作術 | 7ヶ月前 replyretweetfavorite

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inagakikenji 星野仙一 人々の心をつかんだ情報操作術|近藤正高 @donkou | 7ヶ月前 replyretweetfavorite