ある日、私は有楽町駅前にある東京交通会館の女子便所にいた。この建物の低層階の女子便所は、いつも洗面台が混んでいる。二階に東京都旅券課の窓口、パスポートセンターがあるせいだ。その手前には旅行用品店が撮影スタジオを構えており、申請に必要な写真をその場で撮らせようと熱心に客引きをしている。一度でも手続きに来たことのある人間は、次からは「ま、行って撮ればいいや」と考えるようになる。うまい商売である。そして客たちは、5年10年と長く使うパスポートには少しでもいい顔をしておさまろうと、手近な便所でいつになく入念に顔の手入れをしてから、そのスタジオへと臨む。
たとえば同じ建物にある三省堂書店で「青木まりこ現象」(おぐぐりあそばせ)に襲われて便所へ駆け込むと、洗面台の先客たちがみな一様に気合の入ったフルメイクでびっくりする。5年10年周期では、私がその先客側へ回ることだってある。ともかく先日、用を足してから六階の献血ルーム(都内有数の居心地のよさ、超おすすめ)へでも行こうかと、この建物の女子便所へ入ったのだった。
何人もの先客がいた。そのうち一人は私と同世代、30代前半とおぼしき若い母親だった。ナチュラルメイクと呼んで差し支えない薄化粧で、上からゴージャスな色艶を足すというよりは、浮いてきた皮脂テカリを抑えるのに格闘している様子だった。傍らには推定4歳前後といった年格好の女児が、手持ち無沙汰でクネクネ体幹をよじらせながら、胸元まで伸ばした髪の毛先をいじっていた。毎度おなじみ、青木まりこならぬ、交通会館現象である。おおかた、夏休み前に幼児のパスポートを新規申請するついでに、自分の更新手続きもしよう、ということなのだろう。
驚いたのは、ここからだ。若い母親は、自分の口紅を引き終えた後、退屈を持て余している4歳女児に向かって、「××ちゃんも、お粉でキレイキレイするー?」と話しかけ、嬉しそうに頷いた子供を鏡の前に立たせて、ポーチから出したパウダーをはたき始めたのである。そうして次に某キャラクターをかたどった子供用の色付きリップグロスを渡して、今度は女児に自分で塗らせていた。
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