地味なロングセラーの効能
会社からの帰り道、美鈴は三毛猫茶房に立ち寄った。石島に今日の会議の顛末を報告するためだった。結果的に石島の見立て通りだったわけだから、ひと言お礼を伝えておこうと思ったのだ。
扉を開けると、先客がひとり。
細身のスーツに身を包んだ若い男性だ。美鈴には見覚えがあった。営業部の若手社員である榎本光一だった。
「なんで、榎本さんがいるの?」
「それはこっちのセリフですよ。僕は猫好きで、オープン当初からの常連です」
「そうだったんだ。私は猫が目当てというより……」といって美鈴は石島を見た。
「えっ、もしかして石島さん狙いですか? 美鈴社長も意外とジジ専ですね」
「誰がジジイだって?」
カウンター越しに石島が榎本に鋭い視線を送った。分が悪いと察した榎本は話題を変えた。
「そういえば、森下社長もよく来ていましたよ」
「私は知らなかったのに、なんで榎本さんが知っているのよ。なんかムカつく」
ふくれる美鈴。
「あっ、すみません。森下社長にはよく仕事の相談に乗ってもらっていたんです。会社では聞きづらいことも、猫の前だと素直になれるというか……」
「ふーん、そうだったんだ」
美鈴は、自分が知らない父親の一面を知っている榎本のことをうらやましく感じた。これ以上、この話を続けたら、八つ当たりしてしまいそうだったので話題を変えた。
「ところで、榎本さん、どうやったらベストセラーって生まれるのかな?」
「いきなり、むずかしい質問をしますね。売れっ子作家に書いてもらうのがいちばん早いでしょうね」
「やっぱりね。それは今、手を打ってあるから大丈夫」
「そ、そうですか。あとはロングセラーを狙うことですかね」
「ロングセラー?」
「はい。一般的には発売当初から打ち上げ花火のように爆発的に売れるベストセラーもありますが、うちのような専門書を出している出版社の場合は、じわじわ売れるということがあるんです。編集部はいい本をつくってくれていますから、書店から返品されないように地道に営業していると、線香花火のようにじわじわ火がつき始める本があるんです」
「へぇ〜、そうなんだ」
「これまでも10年かけて20万部を突破した本なんかもありますよ」
「そっかぁ、一気に売れなくてもじわじわ売れる本がいくつかあれば、結果的にキャッシュは増えるわね」
「キャッシュ……ですか?」
「ごめん、こっちの話」
「でも、最近はあまりロングセラーが生まれていないんです」
「なんで?」
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