「僕」の世界を動かす外部の力
パズル的な仕掛けや比喩の構造を整理して解読するとわかるが、一見不可解で支離滅裂な「僕」の物語は、奇妙ではあるが理路整然とした文学のロジック(論理)で描かれている。
ではなぜ新しい配電盤が到来したのか。なぜ「僕」の世界が、双子の女の子と事務所の女の子という3フリッパーのピンボールマシンとして蘇ったのか? 「僕」の世界を突き動かしたのは何か?
「僕」の世界を突き動かしたのは、その外部の力である。パラレルワールドからの力であり、パラレルワールドにある鼠の物語が、「僕」の世界を変えたということになる。非論理的ではあるが、それがこの小説のピンボールマシンに象徴される「呪術的な」力の作用ということだ。どのようにして、パラレルワールドの鼠の行為が「僕」の世界を変えたかは知りたいところだが、「どのように」を日常世界におけるHOW(方法)という面で考えるなら、その答えは出ない。呪術の世界のロジックが求められる。
あるいは、力のモデルではなく、パラレルワールドの共変性かもしれない。この場合、一つの世界を変える力が、別の次元の世界に存在するのではなく、多世界が独自の呪術的なコミュニケーションを介して、同時に変性していくことになる。
この奇妙な、パラレルワールドの影響力あるいは共変性は、後の村上春樹文学の特徴でもあり、この特徴が『1973年のピンボール』に萌芽した。おそらく『風の歌を聴け』(講談社文庫)の、「僕」と鼠の恋人の物語も、パラレルワールドの原形だったのだろう。なおこの手法については、『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫)でシンクロニシティーとして考察したい。
パラレルワールドからの影響力あるいは共変性を、しいて物語的な意味に還元してみよう。初期二作において、鼠の苦悩の叙述という世界は、直子を死に至らしめた「僕」の自責の物語表現であり、直子の死の解釈であった。ゆえに鼠の運命が、直子の死の意味をトレースする(なぞる)という仕組みになる。この仕掛けは次作『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)においてさらに顕著になる。
『1973年のピンボール』で「僕」と鼠は、「配電盤」を結節点として変化する。それは「僕」の世界の側からすれば新旧の「配電盤」の交換である。また古い「配電盤」の葬儀として人工貯水池に沈んでいく様態は、パラレルワールドの鼠のあり方そのものになる。思いを吸い込みすぎて、誰とも交流できなくなり、自分を捨てに、貯水池の底に沈むように、鼠には深い眠りが訪れる。
日常をただ生きる
新しい配電盤が可能にした二世界の共変化によって、ピンボールマシンを介した直子の死霊は、この小説の終局へ向かう物語形成力の中で、その死の3年後の1973年に「僕」と語り合うことになる。この対話がまさに「1973年のピンボール」という表題に隠された意味である。
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