じいさんはそのうち、ひんぱんにこの家を訪れるようになった。その度に朗々とラバウル遠征の思い出などを語り、我々に相槌を求め、飯を食い、満腹になればさっさと帰って行く。
じいさんが来た合図はとても分かりやすい。ガラガラびっしゃん、と、まるでこの世の終わりみたいな派手な音を立てて玄関の戸を閉める。自分の存在を全力で主張するように。この家の住人であんなふうにドアを開け閉めする人間はいない。ゴスピなんか、まるで自分の行いが1ミリたりとも他人の迷惑にはなるまいとするかのように、そろりそろりとドアを閉める。
アキラさんはその音が聞こえるたびに「お、じいさん、今日も喰い逃げかあ」とかなんとか言いながら、龍くんに代わって飯を出し、甲斐甲斐しく世話をした。じいさんが風呂に入る時にはそれとなく気にかけ、番台から見守る。普段はさして愛想がいいわけでもなく、淡々と銭湯の仕事をこなす彼が、こういう時に限って驚くほど優しいそぶりを見せることが意外だった。「警察呼んで、身元を確かめてもらった方がいいんじゃないですかね」と僕は言ったが「ま、いいんじゃね。家には帰れてるようだし」と相変わらずやり過ごされた。
龍くんは龍くんで、アキラさんが当番でいない時には、代わりに飯を出し、彼の昔話に付き合った。龍君はじいさんのあしらいがとても上手い。何度も繰り返す話は聞き流し、荒ぶった時には優しくなだめすかし、それでいて嫌なそぶりは見せない。
「おれの地元さぁ、ああいうじいちゃん、いっぱいいるんだよね」と、龍くんはじいさんが帰った後、食べ終わりの皿を洗いながら僕に言った。
「たいてい、コンビニのビニール袋かなんか手に提げてさ、靴下の上に、ゴムサンダル履いて、国道沿いなんかを、前なんか全然見えないんじゃないかってくらいに腰曲げて、ぺたぺた歩いてるわけ。『どこ行くの?』とか、聞いても返事しないし。すげーあぶないんだよね。車なんか乗ってると、轢きそうでひやひやするし。でも、だれも声なんか、かけないわけ。みんな、余裕なんか全然なくてさ」
食洗台の上に、つるりと洗い上げられた白い皿が積み上げられてゆく。僕はそれを一枚一枚、ブルーのキッチンタオルで拭き上げる。
「みんな、よゆうが、ぜんぜん、ないんだ」
シンクの隅には、蝶子が昨日いいかげんに捨てたカップやきそばの食べ残しがひっかかっている。龍君は料理をした後はいつも、金だわしを使ってシンクの隅々まで丁寧に掃除する。他の住人の分まで。
だからさ、ここでくらいは余裕持ちたいんだよね、と龍君は頰についた泡を袖口でぬぐいながら続けた。
「俺たちさ、恵まれてるよ。とりあえずは住む場所もあるし、こうしてみんなで飯、食えるわけじゃん。明日、とりあえずは死なないし。……せっかく、“こんな場所”に住めてるわけだからさ」
「こんな場所」にかかった龍君の気持ちは、僕の胸の中にも、オムライスと同じ黄色とオレンジの色をして広がった。
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