誰しも人生に1度や2度や3度くらい、この世で一番自分がみじめなんじゃないかって思う日があると思う。今日という日は僕にとって、間違いなくそういう日だ。
じいさんのうんこが落ちていたのは、脱衣所と浴場の間の足拭きマットの上で、その生暖かな感触は鼻歌なんか歌いながら上機嫌で風呂から上がった僕の右足の裏を直撃した。絶叫を聞いて駆けつけたアキラさんは、笑いながら「ああ、こういうこと、3ヶ月に1回くらいあるんだよねえ」と言うと雑巾を投げてよこし「僕、入り口でお客さん止めとくから、マコ、早いとこ片づけといて」と軽やかに言い残し、何事もなかったかのようにフロントに戻って行った。
刻の湯に来てから一ヶ月、こうしたじいさんばあさんがらみのトラブルに遭遇しない日はない。彼らはよちよちとおぼつかない足取りでやってきて、思いもよらない騒動を巻き起こす。入れ歯を脱衣所のゴミ箱に捨てて「無くなった」と大騒ぎする者、パンツのまま外に出ようとする者、のぼせて倒れる者……。アキラさんはそんな彼らの引き起こす面倒に対し、嫌な顔一つせず、淡々と対処する。
フロントに現れた戸塚さんはにこにこしながら「ええ、良かったですねえマコさん、運がついたんじゃないですか」と言った。横で蝶子がニヤニヤしながら「ま、あんたの場合、運のツキって感じだけどね」と言う。僕は片手に持っていた右足の靴下を投げつけたが、笑いながら逃げられた。
ポストを覗けば、先日応募した企業からの2次面接の不採用通知が来ていた。これまで細々と就職活動めいたことは続けていたが、手応えらしきものはさっぱり感じられなかった。今日ばかりは、この世に誰も味方がいないような気がして、僕は背を丸めながら時の湯の脇道をとぼとぼと歩いた。
手にはさっき寄ったスーパーの買い物袋を下げている。龍くんに頼まれたのだ。今日は龍くんの仕事が休みで、当番の前にオムライスを作ってくれると言っていた。龍くんのオムライスは美味い。それだけが救いだ、そう思いながら僕は刻の湯の居住部のドアをガラリと開けた。
そのとたん、目に飛び込んで来たのは、ここの住人でも、郵便配達のお兄さんでもない、見知らぬ老人のハゲ頭だった。
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