「ちょうど、君くらいの歳の頃のことです。声楽家というのは一握りの人しかなれない特殊な職業ですから、血の滲むような努力をして皆、音大に入ります。入学してからも厳しい選抜に耐えて1番か2番の成績を取るような人しかその道のプロにはなれません。僕は入学した時から、何としても首席を取りたいと願っていました。コンクールで優勝したい。一流として成功したい。自分が大丈夫だという、確証が欲しかったのです。試験では絶えず1番を取り、先生たちの言うことをよく聞き、朝も昼も夜も練習を欠かしませんでした。しかし、努力の裏で、何かが足りないと感じていました。やるべきことはすべてやっているはずなのに、まるで1ピースだけ外れたパズルのように、何かが欠けているのです。僕はそれを探し求め、やがて、一人の人物にたどり着きました。
その人はミラノで声楽を教えている日本人の先生でした。彼はこれまで世界的な声楽家を何人も育ててきた名うての人物でした。それこそ、一流を目指す声楽家の卵が押し合いへし合い、弟子入りの順番待ちをしているような。僕は矢も盾もたまらず、ミラノ行きの片道チケットを買って飛び立ちました。待ってはおれない。早くしないと、大学生活が終わってしまう。……やっとのことでその先生を見つけ、頭を下げて、弟子にしてほしいと頼み込みました」
戸塚さんはウェイトレスをよびとめ、おかわりを注文した。彼女は注文をみなまで聞かずに、はい、と返事をし、盛大に音を立てながらカップを下げた。戸塚さんは続けた。
「先生は『一つだけ条件がある』と言いました。
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