私の夫は漫画を読まない。……ほとんど。じつは私の夫も、ごく稀に漫画を読むことはある。先日「『きのう何食べた?』って漫画、持ってる?」と訊かれたときには大層驚いた。新聞に書評が出ていたらしい。妻がどんな名作漫画をプレゼンしても梃子でも動かなかったのに、こうも簡単に「なんか、ゲイのカップルが? ごはんを作って食べるお話?」を「読んでみたーい」と言うなんて。すっかり地に落ちたと思っていた新聞の権威も、まだまだ捨てたものではないようだ。
夫のKindle端末に全巻ダウンロードしてやりながら私は、2007年、よしながふみが青年誌『モーニング』で新連載を始める、と知ったときの感動を思い出していた。『クッキングパパ』や『島耕作』を愛好するおじさん読者がページをめくると、俺たちのよしながふみ先生の漫画がシームレスに目に飛び込んでくる。それは当時、じつに画期的な出来事と思えた。
しこうして10年近い歳月が経ち、この「ゲイのカップルがごはんを作って食べるお話」は今や、どんな読者層にも当たり前に読まれる作品となった。単行本が13巻まで刊行される間に、我が夫のような「漫画を読まない」人間さえ、その大評判を聞いて手に取るまでの存在感を放つようになったのだ。
さて、1巻を読み終えた夫の感想は、「このシロさんって、俺みたいだよねー」であった。おまっ、どんだけ自己評価が高いの!?
『きのう何食べた?』に夫婦の関係を当てはめる
シロさんこと筧史朗(1巻カバー左の人物)は弁護士である。堅実で忙しすぎず、定時で上がれる今の職場を気に入っている。老後の不安を払拭すべく少しでも蓄えを残すという信条の下、健康と節約のために自炊をして月々の食費を三万円(連載当時は二万五千円)に抑えている。おもてなし料理のような派手なものは作らないが、主菜副菜取り揃えて栄養バランスのとれた毎日の食事を短時間でささっと作る手際がよい。
彼と同居するパートナーのケンジこと矢吹賢二(1巻カバー右の人物)は美容師で、普段はもっぱら食べる専門。シロさん不在のときは台所に立つこともあるが、自分用に作るのは具沢山のラーメンなど、享楽的かつ罪深い、一点豪華主義の献立が多い。「自炊に対する姿勢によって人間を二種類に分けるなら、俺はどちらかというとシロさんの側で、君は間違いなくケンジの側であろう」というのが、夫の主張だった。そう言われるとたしかにグウの音も出ない。
平素、我が家の台所は夫によって完璧に支配されている。冷蔵庫に満たされる生鮮食料品、冷凍庫にストックされる作り置き、ライフラインとしての自炊環境の管理は、夫の手に委ねられている。私だって料理をしないわけではないのだが、我が家のシロさんに言わせれば、「気まぐれに趣味として台所に立ち、あらかじめ整えられたインフラの上で好き放題やるだけの君やケンジのようなのは、料理をしているうちに入らない」というわけだ。
或る日突然、天啓を得て数十冊の料理入門書を一括購入し、だしの取り方から研究を始めた我が夫。「シロさん、市販のめんつゆを多用しすぎだよね」というのが、二つ目の感想だった。どんな料理もレシピ通りに作れたためしのない私にとっては、『きのう何食べた?』のちょっとした時短術や適当な味付けこそが福音だったのだが……。とはいえ、夫も最近ようやくだしパックの便利さを発見し、「もう、以前の俺には戻れないかもしれない」と言っているので、めんつゆと白だしの有難味に気づくのも時間の問題だろう。
BL一丁、「セックス抜き」で
『きのう何食べた?』は、普段BLを読まない殿方と話をする際、しょっちゅう挙がるタイトルの一つでもある。曰く「岡田さんたち腐女子が好きで読んでいるBLって、『きのう何食べた?』みたいなやつのこと?」……答えは、YESでありNOだ。
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