電気サーカス 第90回

常時接続の黎明期。“僕”と真赤は『テキストサイト』を通じて知り合った友人たちとの共同生活に見切りをつけ、それぞれの自宅へ戻る。その後も二人の仲は相変わらず続いていたが、突然、電話で真赤から別れ話を切り出され、茫然自失に……。

 とにかくこの部屋に居たくなかった。そもそもここは僕の場所ではなく、母の家なのだ。こんなところに甘えていては、母も弟も僕を軽蔑するだろう。もうこれ以上見下されるのはいやだ。
 僕が抜けた後、タミさんはしばらくはオシノさんと二人で花園シャトーに住んでいたが、今は引き払って都内の別の場所にアパートを借りて移り住んでいる。最近会っていないし、新しい部屋をまだ一度も訪ねたこともなかった。そこに行ってつもる話をして、そうしたら、路上ででも暮らそう。冷たいコンクリートの上で一年生活したんだから、風と雨さえ防げば、どうにだって生きていけるはずだ。僕のことなぞ知る人のない場所で、誰とも関わらないで生きてゆきたい。
 タミさんは快く許可してくれたので、僕は今後必要になりそうなものをスポーツバッグに詰めると、少し寝て、昼になってから家を出た。
 ただ歩いているだけなのに、風景がグルグルとして目眩がする。薬を飲まないのがいけなかったのか。僕は歩きながらポケットが膨らむほど詰め込んでいる錠剤のシートを一枚取り出すと、指で一錠ずつ押して全部の錠剤を手のひらの上に出し、口に放り込んだ。そして空っぽになったシートを逆のポケットに入れる。口のなか一杯の錠剤を奥歯で噛みつぶしても何の味もしない。僕はいま何の薬を飲んだのかな。まあ、どれだって一緒だ。実際のところ、何をいくら飲んだって、全く効きやしないのだから。気持を落ち着けるのは、薬の効果ではなく、馬鹿げた飲み方をするという行為そのものなのだ。もし医者が片栗粉の固まりを処方しても、気づかずに飲み続けるだろう。いやもしかしたら、もうすでにすり替えられているのかもしれない。こんなに効かないなんて、いくらなんでもおかしいもの。
 踏切で立ち止まると、太陽の光がやたらにまぶしかった。電車の車輪が線路を踏むゴツゴツとした音が耳の裏にこびりつく。隣で携帯電話を使う男の口臭がにおう。二人の中年女が、先日この駅で起きた人身事故について話す声が、電車の騒音の合間合間に聞こえる。------血がばーっと流れ出して------白い靴下が------小柄なおん------まだ若いのにねえ------。
 遮断機が上がって再び僕は歩き出す。
 平日の昼間のガラガラの電車に乗って、途中の駅で気持ちが悪くなって吐いて、ああ、そう言えば食事らしいものを全く食べていないなあ。何か食べたような気になっていたけれど、よく考えればあれは文鳥に餌をやっただけだった。母の部屋に籠を移動させ、これが最後だからと多めに餌と水をやったら、自分が食べたような気になっていた。どうしてこういう取り違えが起こるのだろうかなあと、ぼんやり考えていると、何故か僕は目的地ではない駅で降りていた。
 それは、真赤が住む街だった。
 ああそうか、都内に来ると言えば、いつもこの街に来ていたからなあ。意識レベルが低下して夢うつつだったから、ここへ来てしまったのか。
 そうして僕は、せっかくだから真赤のマンションでも見て帰ろうと、よせばいいのにそちらの方向へ足を向けたのである。

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電気サーカス

唐辺葉介

まだ高速デジタル回線も24時間接続も普及しておらず、皆が電話回線とテレホーダイを使ってインターネットに接続していた時代。個人サイトで自己表現を試みる若者達がいた……。

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