小説と評伝
平野啓一郎(以下、平野) あと伊藤野枝に対してはどうですか。共感はあったのでしょうか。
瀬戸内寂聴(以下、瀬戸内) 伊藤野枝は書いていて面白かったですけど、私はあんまり好きじゃない。でも、非常に魅力のある人。でも勝手よね、私も勝手だけど。子どもを捨てて行っているでしょ。その子ども、やっぱり野枝のことをちっとも慕ってないですよね。はっきりと嫌がっています。
平野 それから伊藤野枝のやり方は、もちろん小説の主人公だから魅力的に書いてありますが、一方で客観性を持たせようとして、瀬戸内さんも野枝についてのいろいろな人の悪口なども上手に織り交ぜながら書かれていますね。
『諧調は偽りなり——伊藤野枝と大杉栄』 (文藝春秋、1984年/上・下、岩波現代文庫、2017年)
瀬戸内 もう悪口ばっかり。あのときは伊藤野枝の悪口を言ったら正しいという時代だったから。私、それは信じないのね。彼女はほんとに魅力のある人だけれども、「器量が悪い」っていうふうに神近市子さんなんか言っていますけど。
平野 よくそう書かれています。
瀬戸内 それは恋敵の立場で、やっぱりとても女としての魅力があったらしい。はっとする綺麗な写真も残っていますよ。
平野 洗練された都会人というよりも、野性的な女性というような描かれ方をされていて、大杉もすごく快男児として描かれていて。やはり読んでいると、なんでこんな人たちが、最後にはあんな形で殺されなければならなかったのかという理不尽さに、二作を通じてぐーっと作品が集中していきますね。
そこに最後に甘粕正彦という人が出てくるのですが、瀬戸内さんご自身が『諧調は偽りなり』の冒頭で、甘粕についての人物像がどうも上手くつかめなかったから、『美は乱調にあり』ではそこまで至らなかったと書かれていましたけど、先ほどの話のように、最終的にはやはり甘粕という人は軍部に利用されて、彼もかわいそうだったというような印象なのでしょうか。
瀬戸内 そうですね。満州でもすごかったらしいです。どこかに書いたと思うんですけど、木暮実千代が結婚して、満州にしばらくいて、ちょうど終戦のときも満州にいたのね。そして甘粕と皆で仲良くしていた。
そしたらある日、甘粕が、「日本の奥さんたち、集まりなさい、今日はパーティーをしましょう」と言って、何かプレゼントがあるらしいという噂で、奥さんたちは喜んで行ったらしいの。あの人、宝石をいっぱい持っているから、戦局が悪くなって、それを奥さんたちにくれるんじゃないかって。木暮実千代もそう思ったと言うの。
それで行ったら、パーティーの後で女中さんに宝石箱を持ってこさしたの。いよいよ宝石をくれると思って、自分にはどれをくれるかしら、エメラルドかしらダイヤモンドかしらなんてどきどきしていた。そしたら、白い紙一つずつ包んで、「皆さん、手を出しなさい」と言って、掌の上にこう乗せてくれたんですって。「これはうちへ帰ってから開けてください」と。そしたら紙包みのなかは青酸カリだった。
ソ連が来るから、これを飲んでくれという意味だったの。それで甘粕自身はもうその晩に死ぬの。そんな話を木暮実千代がしてくれましたよ。やっぱり彼は自分で死んだからいいんじゃない、殺されるよりね。
平野 いまの話は『諧調は偽りなり』の冒頭にも出ていますが、何か不気味なエピソードというんですか、瀬戸内さんもびくっとした、はっとするようなエピソードだったということを書かれています。
瀬戸内 それから、大杉は殺されたとき、どういう殺され方をしたかずっとわからなかったんです。あっと言う間に首を絞められたというふうに言われていますけど、あの人は柔道が強いし、そんなので死ぬ人じゃないんですよ。