愛そのものへ
平野啓一郎(以下、平野) 前の『花芯』では、自分のなかでどうしようもないものが性欲ということで捉えられていましたが、『夏の終り』ではもう一段それが深まって、愛そのものという形に変っています。つまり、人間がある果たすべき役割、社会的な役割みたいなところに収まりきれないものが、性欲以上の愛自体の問題として捉え直されていて、しかも『花芯』という作品では風変わりな人をモデルにしているのが、今度は作者が自分自身の問題として捉え直して描いていると受け取りました。
そのなかですごく印象的なのが、連作のなかの「雉子(きぎす)」という作品で、ここだけは主人公の名前が変えられていて、設定もちょっと変えて、子どものことにかなり焦点を当てて書かれています。瀬戸内さんご自身の体験としても語られていたその作品だけは、作者のなかの心理的に複雑なものがもう一段深く出ているような感想を抱きました。
子どもに会いに行ったら、「お母さんはもう死にました」と言われたというようなことも、小説のなかに織り込まれていますね。やはりこの『夏の終り』を書くときに、子どもについての作品は何か書かなければいけないというようなことだったのでしょうか。
瀬戸内寂聴(以下、瀬戸内) そう。私はいま93歳ですよね。もう間もなく死ぬと思うけど、自分のこれまでの生涯は、いろんなつまらない、馬鹿なことをしたけど、自分で選んでしたことはすべて、後悔はしてないのね。だからまあ、私としてはいい生涯だったと思うんですよ。
ただ一つ、やっぱり子どもを捨てたってことは、これは許されないわね。自分に対してもそれは許せない。だから、そのことはまだちゃんと書いてないんですね。「書いてくれるな」って言うから。
平野 娘さんが、そう仰るのですね。
瀬戸内 うん。だけど、それだけね、後悔は。いろいろ身の上相談を聞いていると、男ができて出て行きたいなんていう人がいっぱいいます。同じようなの。それで「子どもさんはどうするの?」と言ったら、それで悩んでいるって。そういうときは、「子どもは連れて行かないと絶対あとで後悔するよ」と言うんですけどね。
でも、いまの若い人たちはもう、そういうときは必ず子どもを連れて出ていますね。うちに10人くらい女の人が集まったので、「離婚した人?」と聞いたら、全員手を挙げるの。なかに、両手を挙げる人もいて、二度という意味(笑)。それで「子どもは?」と言ったら、「全部連れてますよ」と言うの。それを聞いて、時代が変わったなと思った。
私は子どもを連れていたらやっていけなかった、食べられなかった。だから最後に置いてきましたけどね。やっぱり連れて出るべきだった。
「あふれるもの」——批評家の反応
平野 せっかくなので自作を朗読していただけないかと思うのですが、『夏の終り』のなかで、瀬戸内さんご自身がここぞというところをお願いします。
瀬戸内 そう言われて、どこがいいかと思っていろいろ悩んだんです。
平野 瀬戸内さんはメディアにもたくさん出ていますけど、自作を朗読されているシーンを、僕も長いお付き合いですけど拝見したことがなかったんで。
瀬戸内 いや、下手くそ、もう徳島弁ですからね。この『夏の終り』の最初に、「あふれるもの」というのがあります。これは直木賞候補になったの、くれなかったけどね。このなかの初めの部分、書いたときに私はそんなこと思わなかったけれど、批評家たちがびっくりするほど褒めてくれたんです。
平野 はい、お願いします。
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