01 デカルトはいつも「方法に従う」
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道を辿るなら、走りながらも道を逸れてしまう人よりも、はるかに前進することができる。──『方法序説』第一部
石橋を叩いても渡らない男
フランス哲学のなかでもデカルトを専門に勉強しているとよく尋ねられます―彼はどんな人だったんでしょう? 本人が書いたものや、彼について書かれたものをそれなりに読んできた人間として感ずるのは、何をするにせよ石橋を叩いて渡る男だった、ということです。こと哲学に関する限り絶対に最後まで気を抜かない。ですから、石橋を叩いて渡るどころか、渡らないことさえある。そのような男だったと思います。
「きわめてゆっくり」歩むために必要な「まっすぐな」手綱
それでは、彼の用心深い性格はどのようなところに現れているでしょうか。
ヒントとなるものを、彼が二十代の前半に覚え書きとして残したノートからなる本のうちに探してみましょう。私のような研究者たちが『思索私記』と呼んでいる本です。ちなみに「私記」という日本語からは、プライベートな空間で人の目を気にせずに思索に集中する彼の様子が浮かんできて、素敵なタイトルだとしばしば感心させられます。
しかしそこには、帝政ローマ末期の詩人アウソニウスの、それこそもっと素敵な一句が引用されているのです。
「我、人生のいかなる道にぞ従わん」
実はこの一句、二十三歳のデカルトが十一月十日の深夜から翌朝にかけて見た夢のなかに出てきたと言われています。
彼がこの一句にどのような思いをめぐらせたのか、研究者のあいだではいろいろな議論があります。ここではただ一つ、「道」という比喩はいったい何を意味しているのか、ということに着目したいと思います。
ただちに考えつくのは、これは職業上の選択肢を意味している、ということです。つまり、自分はどのような仕事につきたいのか、つくべきなのか、そのようなデカルトの迷いがここには現れているわけです。実際に彼はこの前後に、学問の「道」を一生かけて歩んでいこうと決意しています。「哲学者」デカルトの誕生です。
しかし、用心深い彼のこと、この道を「きわめてゆっくり歩む」のをどこまでも忘れません。そのためには何が必要でしょうか。
ここでいささか唐突ですが、ギリシア神話に、テセウスに恋をしたアリアドネという女神がいるのをご存じでしょうか。彼女は、怪物退治のために迷宮へ入っていく彼に脱出用の糸を与えたので、難問を解決する方法のことを「アリアドネの糸」と呼ぶようになりました。そうするとデカルトが必要とするのもまた、それに相当するものではないか、と予想されます。つまり 「方法」という手綱、しかも絡まったり弛んだりしていない「まっすぐな」手綱です。
ところで、フランス語では方法のことを「méthode」と書きます。その発音を厳密に日本語に置き換えることはできませんが、あえてカタカナで書くなら、「メトード」になります。英語にすると「method」つまり「メソッド」です。
しかもこれらの単語は、「meta」と「hodos」という二つのギリシア語がもとになって作られました。それぞれ「メタ」と「ホドス」と読みます。「meta」とは「〜に沿って」という意味で、「hodos」は「道」という意味です。つまり、「方法」という日本語に相当する欧米語には、「道に沿って」しかも「まっすぐな道に沿って」というニュアンスが込められているのです。「アリアドネの糸」というイメージとともに、このニュアンスをしっかりと押さえることが、ここではとても重要です。
なぜならそうすることで、「いかなる道にぞ従わん」と自問するデカルトは、どのような「方法」に従って学問の「道」を歩んでいこうか、そして学問上のさまざまな問題を、いやそればかりか、人生上のさまざまな課題をどう乗り越えていこうか、そのことを懸命に考えていた、ということが分かってくるからです。闇雲に物事に取り組むのではありません。方法に従って取り組むのです。
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