ぼっち」男子のための思春期サバイバル・ガイド

高校の三年間、友だちは一人もできなかったし恋人も作れなかった。恋愛もセックスも何一つできなかった。一発逆転を賭けて東大を目指すも、センター試験は全教科白紙で提出。すべてから逃げ出した少年は「卒業式が終わったら、自殺しよう」と決意した――。
現代の性問題の解決に取り組む気鋭の書き手が、暗黒の思春期をさらけ出しながら、孤独と性について社会学的な視点で向き合う力作『孤独とセックス』

はじめに

「ひとりで生きるためには、人は獣であるか神であるかでなければならない」そう、アリストテレスは言っている。だが、第三の場合が欠如している。つまり人は両者でなければならない。

────────────── フリードリヒ・ニーチェ


頭の中で鳴り響くレクイエム

 人影もまばらな、18時を過ぎた高校の図書館。11月も終わりに近づき、窓の外は既に真っ暗になっています。

 一人でZ会東大コースの真っ白な解答用紙を見つめながら、イヤホンを耳に差し込んで浜崎あゆみの新曲を聴いていると、当時女子高生のカリスマと呼ばれていた彼女の歌が、死者に永遠の安息を与えるための歌=安らかなレクイエムに聴こえてきました。

 18歳の私は、出口の見えない孤独の真っ只中にいました。「東京大学に現役で合格する」ということを強迫観念のように人生の目標に設定し、高校のクラスメートとは一切会話をせず、友だちも恋人も作らずに、全ての人間関係を断ち切って、ひたすら一人で勉強に没頭する毎日。「自分は東大に入るだけの能力を持った人間であり、クラスの他の連中とは違う特別な存在なんだ」という根拠の無いプライドだけが、孤独な日々を生きる支えになっていました。

 しかし全国模試の結果は、高三の12月になってもD〜E判定(合格率20%以下)ばかり。このままの成績では、東大に受かることは不可能に近いと感じていました。

 しかし東大に受からなければ、友だちや恋人を作らずに(作れずに)勉強だけに全てを注いだ高校三年間が全くの無駄になってしまう。そうなれば、自分の自尊心は再起不能なレベルまでグチャグチャになってしまうに違いない。

 こうした焦燥と恐怖の中で苦しみながら勉強を続けているうちに、頭の中である言葉が優しくリフレインするようになります。まるで、悪魔の囁きのように。

「みんな、もう死んでいるんだよ。死んでいることに気づかないから苦しいんだ。早く死んでいることに気づこうよ」

 そうか、自分はもう死んでいる=合格の可能性が無いのだとすれば、受験自体を放棄すればいいじゃないか。

 本気で受験して不合格になった場合、自分のプライドは粉々になってしまうだろう。しかし、わざと答案を白紙で提出して不合格になれば、本気で受験して落ちた場合よりもダメージは少ないはずだ。「本気を出して受験すれば受かったかもしれないけれども、あえてそうしなかった」という言い訳ができる。そうすれば、今の自分をかろうじて支えている、このちっぽけなプライドだけは守ることができる。

 こうした考えは、病み切った頭で毎日終わりの見えない勉強を続けていた私にとって、きわめて魅惑的なものでした。自分が既に死んでいることに気づけば、永遠の安息が訪れるに違いない。もうこれ以上、苦しい思いをしなくてもいいんだ……。

誤算、そして生きる意欲の蒸発

「死んでいることに気づけば楽になれる」というレクイエムの誘惑に魂を奪われた私は、年末の時点で受験勉強を完全に放棄し、センター試験の全教科を白紙で提出しました。大学受験という進路を自ら断ってしまい、その後の人生プランが文字通り白紙になってしまったわけですが、そんなことよりも、当時の私には「これでもう苦しまなくて済む」という目先の精神的安定のほうがはるかに重要だったのです。プライドをかろうじて維持することもでき、「これでやっと少しは楽に生きられるかもしれない」と安堵しました。

 しかし受験放棄によって得られた解放感もつかの間、しばらくすると以前よりもさらに重さを増した憂鬱の波が押し寄せてきました。

 プライドを守るために受験を放棄したわけだが、そんなちっぽけなプライドにすがって生きなければならない時点で、自分の人生はとっくに終わっているんじゃないだろうか。

 振り返ってみれば、「人生で一番楽しく、輝かしい青春の時期」と言われている高校三年間、自分は結局誰ともつながれず、何も達成できなかった。

 友だちも一人もできなかったし、恋人も作れなかった。当然、恋愛もセックスも何一つできなかった。授業は発狂するかと思うほどつまらなかったし、体育祭も文化祭も修学旅行も、全てが嫌な思い出に満ちている。

 そして一発逆転を賭けて挑んだ東大受験も、土壇場で放棄してしまった。センター試験を白紙で出したため、二次試験会場の本郷キャンパスにすら一歩も入れなかった。

 自分が死んでいることに気がつけば楽になれる、学校の人間関係や世間の常識から抜け出して一人になれば楽になれると思っていたのに、全然楽になれなかった。

 この三年間で、全てのことが無意味で、どうでもいいと思えるようになった。生きていること自体、どうでもよくなった。自分はもう本当に死んだほうがいいんじゃないだろうか。

 虚ろな思いを抱えたまま、地元のホームセンターに行って、首を吊るための登山用ロープを買いました。その後、高校の裏手にある防砂林を歩き回って、枝ぶりのよさそうなアカマツの木を探しました。

 卒業式が終わったら、ここで自殺しよう。心の中でそう決めました。

「社会的な死」の誘惑

 他者と関わって傷つくことを恐れ、ちっぽけなプライドを捨てること=等身大の自分を受け入れることを拒絶し続けた18歳の私は、孤独という名の殻に閉じこもりました。

 窒息しそうな生き苦しさの中で、「死んでいることに気づけば、楽になれる」という誘惑に吸い寄せられ、自ら社会的な死を選び取ること=受験と進路の放棄という手段を用いることで、どうにかして楽になろうとします。

 しかし結局楽になることはできず、自ら選んだ社会的な死によってメンタルと自尊心をグチャグチャに踏み潰された挙句、物理的な死=自殺を選び取る寸前まで追い込まれます。

「全ての人間関係や社会的役割を放棄すれば、楽になれる」と考えてレクイエムの誘惑に身を委ねた結果、逆に孤独に魂を食われ、殺されかけてしまったわけです。

 言うなれば孤独は、ギリシア神話に登場するセイレーン(上半身が美しい女性、下半身が猛もう禽きんの姿をしている海の怪物)のような存在です。

 人生という大海原で、星の見えない夜に漂流している人間たちを、「こちら側に来れば楽になれる」と魅惑的な歌声によって吸い寄せ、そして食い殺す。

 彼女が歌うレクイエムは、当時の私のように人間関係や社会的役割に倦う んでいる人の心をとろけさせ、現実と対峙する意欲を奪い、社会的な死へと導きます。

「小さな死」の誘惑

 孤独の誘惑と並んで当時の私を苦しめていたのは、セックスの誘惑です。

 人間がセックスに誘惑される背景には、純粋な性的欲求や生殖本能だけでなく、「セックスを通して、誰かと心を通い合わせたい」「ありのままの自分を受け入れてほしい」といった承認欲求が潜んでいます。

 高校の三年間で、恋愛もセックスも何一つ実現することができなかった、すなわち「誰からも一人の人間として承認してもらえなかった」という挫折感が「自分は生きている価値が無い」という絶望感につながり、自殺願望に着火する引き金になりました。

 18歳の頃の私のように、「セックスをしさえすれば救われる」「恋人ができれば、今の孤独から脱出できて楽になれる」と信じている人はたくさんいるはずです。

 フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユは、生殖を目的としない性行為(エロティシズム)を「小さな死」(la petite mort)と表現しました。セックスによって、人間は自他の境界線を忘却し、気を失うような性的絶頂を通して、疑似的な死を体感することができる。言うなれば「死のシミュレーション」です。エロスの中にはタナトス(死への誘惑)が潜んでおり、それゆえにセックスは人を魅惑する、というわけです。

「社会的な死」によって楽になりたいという願望と同様に、「小さな死」によって救われたいという願望は、多かれ少なかれ、誰の心にも隠れているはずです。そして心理的・身体的に弱っている状態であればあるほど、「自分のことを受け入れてくれる相手と、全てを忘れさせてくれるような快楽の渦に溺れたい」という思いに囚とらわれ、「セックスさえできれば」「恋人さえできれば」もう死んでもいい、と思い詰めるようになる。

 しかし、現実に自分の理想通りの相手、望み通りのタイミングで「小さな死」を味わうことのできる人はほとんどいません。失望と孤独の中で、「セックスさえできれば、死んでもいい」という願望は、「セックスできなかったら、もう死んでもいい」という自殺願望に容易に転化します。

 そう考えると、セックスは孤独と並ぶ「もう一匹のセイレーン」だと言えます。人々を「小さな死」へといざなう美しい歌声、そして魅惑的な上半身の裸体に見惚れて彼女に近づきすぎてしまった人間は、猛禽の鋭い鉤爪で引き裂かれ、食い殺されてしまう。

 孤独とセックスという名の二匹のセイレーンは、今も社会の片隅でその歌声を響かせて、私たちが「獲物」になる瞬間を耽々と待ち続けています。

他者と社会、そして自分とつながるために

 人間を「社会的な死」もしくは「小さな死」へといざなうセイレーンたちの歌声が最も心に響きやすくなるのは、性的にも社会的にも「大人」と呼ばれるようになったにもかかわらず、心身共にまだ幼さと不安定さを抱えている18歳という時期ではないでしょうか。

 大人と子どもの狭間、そして社会の光が当たりにくい隙間の世界で、人知れず孤独やセックスの持つ魔力に心を奪われかけている18歳も少なくないはずです。

 それでは当時の私と同じように、恋愛経験も社会経験も乏しい18歳の男子がこうした誘惑に抗うためには、一体何が必要になるでしょうか?

 その答えは、ただ一つ。「社会的な死」と「小さな死」の誘惑に対する免疫、すなわち孤独とセックスに対して逃げずに対峙する力を身につけることです。

 孤独やセックスに関する悩みは、いずれも相手ありきの問題になるため、「一人では」解決できません。同様に「ひとりでには」解決できません。一人でもがいていれば、あるいは適当に放置していればいつか解決する、ということはまずありません。他者や社会と対峙した上で、自らの意志と行動で、具体的かつ実効性のある解決策を組み立てていく必要があります。

 性は次世代に命をつなぐ媒体であるだけでなく、個人を社会とつなぐ媒体でもあります。そして孤独も、個人を社会と切り離す要因になるだけではありません。孤独の中で育はぐくまれた感性や能力が、個人を社会とつなぐ要因になることもあります。

 本連載の目的は、孤独とセックスにまつわる11の問いと、それらに対する回答を通して、他者や社会、そして自分自身と「つながれない」ことで悩んでいる18歳の男子に、「つながる力」を身につけてもらうことにあります。

 それぞれの問いは、私自身がこれまでの活動や取材の過程で出会ったもの、投げかけられたものの中から、現在18歳の男子にとって重要かつ切実な問いを中心に選定しています。

 孤独とセックスに対する免疫を獲得し、それらを通して他者や社会、そして自分自身と自在につながる力を身につけることができれば、二匹のセイレーンの誘惑を弾き返すことができます。

 現在18歳の男子にとって、そしてかつて18歳だった全ての男子にとって、本書が他者や社会、そして自分自身とつながるためのガイドブックになることを祈っています。

 願わくは、本書を読み終えた後、あなたの頭の中に鳴り響いている音楽が、死へといざなうレクイエムではなく、生と性の歓喜を謳う人間賛歌であらんことを!

「誰と交わっても空しい」あなたに贈る、生き抜くためのサバイバルガイド!

この連載について

孤独と性をめぐる11のレッスン

坂爪真吾

高校の三年間、友だちは一人もできなかったし、恋人も作れなかった。恋愛もセックスも何一つできなかった。一発逆転を賭けて東大を目指すも、センター試験は全教科白紙で提出。すべてから逃げ出した坂爪少年は「卒業式が終わったら、自殺しよう」と決意...もっと読む

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コメント

ryo10hottie これは神連載の予感...!!! 3ヶ月前 replyretweetfavorite

whitehandskyoto cakesでの連載、始まりました。『孤独とセックス』の一部が無料で読めますので、通学・通勤の合間にぜひ!スマホでお読みください。 https://t.co/0E8llVE5S1 https://t.co/0E8llVE5S1 3ヶ月前 replyretweetfavorite