「ああ、今日も良い天気だなぁ」
刻の湯の入り口のガラス戸を押し開けながら、僕はわざとはっきりと声に出してそう言ってみた。そうすることで、青い空から降り注ぐ、絹のように透き通る日差しが体じゅうに沁みわたる気がする。
今日はこれから戸塚さんと新宿のギャラリーを巡ることになっている。
散歩は戸塚さんのライフワークだ。入居した当時、僕が何の仕事もしていないというと、彼は目を輝かせて「だったら私の散歩に付き合ってくれませんか」と言った。
僕たちは東京じゅうを散歩した。なんせ時間はたっぷりあるのだ。時には清澄庭園を4時間かけてゆっくり、ゆっくり散歩したり、『鶴千』という赤坂の時の止まったようなディスコバーでゴーゴーダンスを踊る人々を見ながらモヒートを飲んだり、上野でピンク映画を見たりした。彼と歩くごとに、大木の年輪が一輪、一輪増えるようにして、街の輪郭が広がってゆく。彼の知る東京は、僕の知る東京とはまるで違って見えた。
戸塚さんはいつも、背筋をピンと伸ばし、ゆっくりゆっくり、けれど悠然と歩いた。仕立ての良いキルティングシャツとアイロンの正確に当てられたチノパンツに身を包み、決して姿勢を崩さず、穏やかに、しかし力強さを持って。彼の背中は、いつもこう言っているみたいだった——「何も心配はいらない」。彼の人生に蓄積された経験は、淀みや澱として脂肪の隙間に溜め込まれるのではなく、今も血液の温かさを持って皮膚のすぐ下をどうどうと巡り、彼の過ごしてきた時間の価値を、人々に知らしめているように思えた。僕はどうやったら彼のように歳を取れるのか、不思議でしょうがなかった。
この日、僕たちは新宿南口の画廊に絵を見に行ったのち休憩するために新宿駅の南口にある駅ビルの5階のカフェに入った。夕方4時の店内は灯りを落とし、人影がまばらだ。甲州街道に面したこのビルは一面がガラス張りで、下を向けば、新宿の街を貫く甲州街道が見渡せた。道路を挟んで向かいにはファッションビルと高級デパートが並び、その向こうには林立する灰色のオフィスビルが見える。
おくれ毛を盛大にポニーテールからはみ出させたウエイトレスが注文を取りにきたので、僕らは、つるばらの模様の描かれた分厚い革張りのメニュー表からこぶ茶とカフェラテを注文した。戸塚さんがカフェラテで、僕がこぶ茶だ。
「銭湯の仕事には、もう慣れましたか」戸塚さんは窓の外を見やりながらそう言った。
戸塚さんの視線は、いつだってバターのように柔らかく空中に放り出される。そこにあるものを、ありのままに包みこもうとするように。
「ええ、まあ、おかげさまで」僕は小さく頷く。そう言った途端に、みぞおちのあたりに何かが引っかかるのを感じながら。
刻の湯での生活に安堵を感じる一方で、僕は自分という存在があまりに宙ぶらりんな気がした。自由だった。今の自分は限りなく自由だった。しかしそれはどことなく虚しい響きのある「自由」だった。刻の湯の休みの日に、ハローワークや就職支援のイベントに足を運んでいるものの、これまでなんの成果も出せずにいることも、その原因の一つだった。
「未来のことが、気がかりですか?」
突然そう言われて、僕はぎょっとした。 彼に悩みを打ち明けたことは一度もなかった。
「……そう、ですね」無理やり答えようとして、もつれた声が喉奥から出た。「刻の湯に住まわせてもらって、……感謝しているんです。すごく居心地がいいし。でもその一方で、このままでいいのかなって……ここにいていいのかなって焦るんです。アキラさんは、そのうち見つかるまで、ゆっくりすれば、って言う。でも僕は、とてもそんな気持ちにはなれない」
頭の中に散らばった思いをつないでみると、それはひどく単純で、とても幼稚な言い訳に聞こえた。わかっているのだ。自分がどうすればいいのかは。しかし一向に動き出せない。泡と湯気に守られているうちは動く体も、刻の湯を一歩出るとたちまち軋んで、どうすればいいのか分からなくなる。
「君は、小説や詩が好きですね」彼は僕を見た。穏やかな視線で、けど、真剣に。
「君のブログをアキラくんに教えられて読んだことがありますが、言葉選びに時間をかけたことが感じられましたし、読み手への配慮の行き届いたものでした」
突然のことに、顔が熱くなった。僕が誰にも内緒で続けていたブログ——日々思うことを細々と書き綴っている——が、アキラさんにバレていたことに。そしてそれを、戸塚さんが読んでいたことに。
「書くことに興味は?」