起きて最初にすることは、階下から漂うコーヒーの匂いを胸いっぱいに吸い込むこと。窓を開け、庭でラジオ体操をする戸塚さんに「おはようございます」と声をかけること。階段を降り、トーストをセットし、勝手口でにゃおにゃお鳴く飼い猫のタタミに餌をあげること。テレビをつけ、天気予報を見て、今日の客の入りと、丁度良い湯加減について想像を巡らせること。
こうして始まった「刻の湯」での生活は、始まってみれば驚くほど心地よく僕の体に馴染んだ。
休日は週に1回、水曜日。手が足りている時にはどこで何をしていても自由。メインの仕事はほぼアキラさんと、オーナーである戸塚さんが取り仕切る。
もつれる髪の毛をデッキブラシでからめ取り、洗剤を撒き、桶や風呂椅子を洗う。人の形跡だと思うと、不思議と掃除も苦ではなかった。この作業が明日を作っている、という実感が、デッキブラシの木の柄の確かな固さと一緒に手のひらに残った。昼の間じゅう絶え間なく響き続ける湯の音が、夜、隣の部屋の住人のいびきを聞きながら床についた後も耳奥にいつまでも留まり、ちっぽけな不安を押し流し、いつしか眠りに落ちているのだった。
不思議だった。こうして人生が続いていることが。肩書きのないまま大学を卒業した僕の人生はこれで終わりだと思っていた。しかし実際に生活は続き、他人の気配に救われている。
これまで自分が「社会」だと思っていたものは、黒いスーツの群れがつくる強固な世界だった。しかし、ここでこうして皺だらけの肉体に囲まれながら暮らしていると、僕の中にもう一つの「社会」の姿が立ち上がってくる。「GDP」だとか「総活躍」とかいう言葉からはかけ離れた、確かな生の営み。ここでは血の巡る速さで時が流れる気がした。ブラシを握りしめ、固いタイルの床を擦るたび、僕は自分の手が蔦のようにその柄を伝い、その先にある見えない誰かの生命に、かちりと接続する気がした。
「いい加減にしてよ。蝶子さん、男を連れ込むにしたって節度ってもんがあるよ」そう口火を切ったのはゴスピだ。
今日は2週間に一度の住人会議の日だ。定休日の夜、誰からともなくめいめいに好きなものを持ち寄ってリビングに集まり食事を囲む。
「あらあ、いいじゃないの。性生活のスタイルにまで、同居人に言及されたくないわ」と、蝶子はちゃぶ台を挟んで斜め向かいから反論する。
「そうじゃない。あばずれるのは勝手だけど、毎晩毎晩、騒音で起こされる隣の部屋の僕の身にもなってよ。やるなら外でやって」