メゾン刻の湯

大丈夫よ、あたし、人事部長と寝てるもの」

ハーフだからという理由で、幼い頃から嫌がらせを受けてきた蝶子は、これまで常に努力を重ね、優秀な成績を残すことで周囲を見返してきた。そんな蝶子が先日、一流企業からの内定を辞退したのだという――。社会からハミ出たくせものたちの集まる銭湯シェアハウスが舞台の傑作青春小説、第5話です!

 僕の肩を、蝶子が背後から引っ張った。

「行こうよ。裏の家、見せてあげる」

 フロントを出る直前、僕は振り返ってちらりと男を見た。彼は来た時と変わらず、何事もなかったかのように番台に座っていた。柱の木目の一つのように、しっくりとそこに馴染み、50年でも100年でも座り続けていそうな風で。うつむいて帳簿をめくり始めた彼の、うなじからタートルネックへと吸い込まれてゆく、透き通るような首筋の白さだけがやけに目に残った。

「おい、なんなんだよあいつ。初対面でめっちゃ失礼だろ」

 蝶子は振り返りもせず、銭湯と隣家の間の細い砂利道をずんずん進んでゆく。

「幽霊」

「へっ」

「刻の湯の幽霊。—嘘。本当は私も詳しくは知らないんだ」

「蝶子、どうやって知り合ったんだ」

「twitter。住人募集しますって、告知がどっかから流れてきてさ。面白そうだから、つい」

「つい、じゃねえよ。それよりお前、なんでこんなところにいるんだよ。今の時期、研修とかいろいろあるんじゃないのか。ええっと、お前の内定先の」

「ホムラショーケンね」蝶子はそう言うと、タバコをパーカーのポケットから取り出して目にも留まらぬ速さで火をつけた。

「大丈夫。昨日内定辞退したから」

「えーっ、あの、内定辞退した学生を灰皿で殴るっていうホムラショーケン」ぼくは言った。「蝶子、怒られたんじゃないの?」

「大丈夫よ、あたし、人事部長と寝てるもの」そう言って蝶子ははぁ、と白い煙を吐く。「ああだこうだ言うなら、御社の社員にハラスメントされましたってSNSでバラまくけどどうする、って脅したら、あっさり」

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”正しく”なくても”ふつう”じゃなくても懸命に僕らは生きていく。銭湯を舞台に描く、希望の青春群像劇、予約受付中!

メゾン刻の湯

小野 美由紀
ポプラ社
2018-02-09

この連載について

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メゾン刻の湯

小野美由紀

”正しく”なくても”ふつう”じゃなくても懸命に僕らは生きていく。「傷口から人生」の小野美由紀が銭湯を舞台に描く、希望の青春群像劇! どうしても就活をする気になれず、内定のないまま卒業式を迎えたマヒコ。住む家も危うくなりかけたと...もっと読む

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コメント

masaki_desuyo_ わたしの残りの人生においてほぼ確実に言わないであろうセリフの1つが 2年弱前 replyretweetfavorite

omata_shoko 週末は更新無いから今日を待ってた。早ぐ続ぎよみだい 2年弱前 replyretweetfavorite

Miyki_Ono 第5話です。 2年弱前 replyretweetfavorite