僕は、路地裏に突然現れたその巨大な銭湯をまじまじと眺めた。
黒々とした三角形の瓦屋根が、左右にゆったりと羽を伸ばしながら、分厚い雲の隙間からさしこむ日差しを浴びて優雅に艶光っている。白い壁は所々色あせ、建物が過ごしてきた長い年月を示してはいたが、建物全体を支えるのには十分な体力を残しているようだった。
一体、どれぐらい昔からある建物なのだろう。
あたりはしんと鎮まり返り、人っ子ひとりいない。 横を見れば、左右に開いた戸口から、ふうわりとした湯の匂いと、暖かな湯気が立ち上っている。入り口に掲げられたはっとするほど鮮やかな群青色の暖簾が、玄関のタイルの緋色に映えた。暖簾の中央には旧字体で「刻之湯」とプリンティングされ、鳥らしき絵を丸で囲んだマークが描かれている。
僕は思い切って道草を喰うことにした。蝶子には悪いが、仕方ない。中で事情を説明して、充電させてもらおう。分厚い暖簾をくぐり、靴を木のロッカーに押し込め、フロントへと続くガラス戸を開けた。
フロントは明るく清潔に磨かれていた。正面に男湯と女湯の暖簾がかかり、右手に番台がある。番台と言っても、昔ながらの高座方式ではなく、ビジネスホテルようなカウンター方式だ。
おどろいたことに、番台に座っていたのは僕と同じくらいの年齢の青年だった。青年はちらりとこちらを見て「460円です」とよく通る声で言った。僕は少し気圧された。客商売の人間には珍しく、愛想や遠慮の一切ない、胸に直接突き刺さるような声だったからだ。慌ててポケットの小銭入れから460円を取り出す。青年はそれを受け取ると、またちらりと僕を見て「タオル、あんの」と言った。そうだった。やけくそで飛び込んだあまり忘れていたが、僕は銭湯の必需品をなにも持っていないのだ。まごついている僕を見かねたのか、男はカウンターの手元を探ると「ん」と小さな声をのどの奥から出して、黄緑色の小さなタオルを突き出した。どうやら貸してくれるらしい。
僕は恥ずかしさと気まずさで、あわてて緋色の暖簾へと身を突っ込み、それが女湯である事に気づいて身を翻し、わたわたと男湯の入り口に飛び込んだ。不審な客と思われただろう。ああ、嫌だ嫌だ。僕はこの、コミュニケーションに難ありの性格を、もう22年も忌み嫌っている。
脱衣場は外から見るよりもはるかに広く感じられた。木のロッカーに乱雑に衣服を押し込めて鍵をする。ぴしりと升目の並んだ重厚なこげ茶の格天井が静かに僕を見下ろしている。さぁさぁという水の音以外、僕を取り巻くものはなにもない。
湯殿にも誰一人として客は居なかった。ジャグジーの泡だけが勢いを抑えることなく、ごうごうと音を立てて浴槽の中でうねっている。ぷうん、とやわらかな湯の匂いが鼻腔に満ちて、慣れない場所への緊張に固く縮んでいた内臓が一気にほぐれてゆく。足もとを見ると、白い六角形のタイルがびっしりとならんでいた。古さを感じるものの、ぴかぴかに磨かれて足裏に心地よく吸い付く。
かけ湯をして、湯船に身を沈める。想像していたよりもあっさりとした湯あたりの柔らかな湯が体を包み、僕はあまりの心地よさに思わず深いため息を漏らした。骨という骨の隙間が開き、そこに温もりが潜り込んでくる。血が泡立ちそうなほど強いジャグジーが激しく背を叩き、僕は自分の身体の中にこれだけの血管が走っていることを、久方ぶりに意識した。
青く塗られた木造の天井は、小さめのプラネタリウムくらいに広い。こんな風に何も考えずに天井を眺めるなんて、一体いつぶりだろうか。ここにこうしているだけで、ふっと、胸の奥に凝っていた、固い何かが溶け落ちて行く気がする。
湯から上がる頃には体も心もすっかり緩み切り、僕は久しぶりに、さっぱりとした気持ちになっていた。仕方がない。先のことはこれから考えよう。僕は鼻歌まじりに青い暖簾をくぐりフロントへ出た。
スマホの電池は復活していた。蝶子からは相変わらず連絡がない。あいつ、僕との約束を忘れているんじゃないだろうな。見知らぬ人間に道を聞くのは気が引けたが、僕は思い切って番台の男に声をかけた。
「すみません」スマホの画面を差し出す。
「この住所、どのあたりだか、ご存知ないですか」
番台の男は、その細い目を更にきゅ、と縮めてそれを眺め、一瞬の間を置いた後に「ああ」とつぶやき、なぜだか、ふにゃ、と幼児のような顔をした。なんだこいつ。
「それなら、うちだけど」
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