本の魅力を伝えれば
ショックを受けた美鈴が財布の中のポイントカードの束を取り出して呆然としていると、喫茶店の扉が開く音が聞こえた。
「Hello」
大きなバックパックを抱えた金髪の外国人女性2人組だ。近年、外国人観光客にも日本の猫カフェが人気だとニュースで見たのを美鈴は思い出した。
石島は美鈴の席から離れ、英語で外国人観光客の対応をし始めた。海外赴任でもしていたのだろうか。流暢な英語だ。ジョークも飛ばしているようで、外国人観光客も楽しそうに笑っている。
そんな光景を横目に、美鈴は石島に教えてもらったことを頭の中で復習していた。お金の時間価値は出版の取引条件にも当てはまることは間違いない。キャッシュを受け取るときは、できるだけ早く受け取るのがファイナンスの原則だとすれば、やはり6カ月後に入金される「委託販売」よりも1カ月後に入金される「注文販売」に力を入れたほうがよいことはあきらかだ。やはり書店から積極的に注文をとる方法を考えてもらえるように、営業部長の早瀬をもう一度説得するしかない。
ただ「やるべきことはやっている」という早瀬が実際に動いてくれるかどうか……。
「お金の時間価値」の話をしても、「理論はわかるけど、実際の営業現場はカンタンにはいかない」といわれかねない。
何か「注文販売」を増やす具体的なアイデアが必要だ……。美鈴は頭を抱えた。
すると、頭上から石島の声が聞こえた。
「美鈴社長、ちょっといいですか?」
美鈴が頭をあげると、石島が困った顔をして立っていた。
「あちらの外国人のお客様に『ネコモエ』の『モエ』ってどういう意味と聞かれたんですが、恥ずかしながら『モエ』という言葉が、どういう意味かわからないのです。最近の若者言葉かなと思いまして」
「モエ? ああ、『猫萌え』ね! 石島さん、萌えの意味も知らないのかあ。むずかしいファイナンスの知識はあるのにね。なんか意外」
「流行りものには疎いもので……」
「流行ったのは、だいぶ前だけど……。ヤバくね。『萌え』っていうのは、ものすごく大好きっていう意味だよ。いとおしくてたまらないっていう感情。オタクの人が使い始めたのがきっかけみたいだよ」
「そうでしたか。ありがとうございます。最近、うちも外国人観光客が増えているのですが、日本の文化について質問されて、返答に困ることがあるんです。たとえば、『なぜ日本人は箸を使うのか?』とか、『なぜ仏教徒が多いのに教会で結婚式を挙げるのか』とか、『武士道とはどういう意味か?』とか……。知っているつもりでも、あらためて聞かれると答えるのがむずかしいんですよね。いくら英語ができても、知識がないので答えられないことがよくあって困ります」
そういい残し、石島は外国人観光客のもとに戻って、猫萌えの説明を始めた。
外国人の2人も石島の説明に納得しているようだ。
その姿を見ながら、美鈴は高校の留学生から「神様と仏様は何が違うの?」と疑問をぶつけられて返答に困ったことを思い出していた。日本の文化のことは、日本人もよく理解していないものだ。
同時に、美鈴はあることを思い出した。
カバンから早瀬からもらってきた新刊注文書を取り出し、あらためて8月の新刊のラインナップを見た。刊行される新刊の1冊に『外国人にも伝えたい日本の文化』というタイトルがあることが記憶に残っていたのだ。
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